実際やってみて思うのは大知と矢的直明は化け物タッグだということ。文字の一つに至るまで一切無駄がない。詞、曲、タイトル、歌声、ダンス、演出、全てがこの世界観を見事に表している。めちゃくちゃなこと言うと、ストーリーの根底そのもの、大枠については誰しも想像したことあるような話なのに、それを唯一無二の表現、結末に落とし込んでいる。この結末だからこそ、このアルバムは「球体」であることができる。…そろそろ何言ってるか自分でも分かんなくなってきたな。 まあまとめるならこれはもう日本の音楽とかそんなレベル超えて「文学」「芸術」だってことですね。明らかにそれまで彼が作ってきた音楽とは異なるニュアンス。EXCITEやBlizzardなどの代表的ヒット曲からはまるで想像のつかない作品群である。3年半もの年月をかけ、作詞作曲家Nao'ymt(矢的直明)と作り上げた、濃密で不思議なこのアルバム。nFieldさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?そんなわけで全17曲、いくつかのサイトの考察を参考にさせて頂き、全歌詞の解釈、ストーリーの考察をしました。あくまで個人の解釈である上に、Nao'ymtの日本語レベルが高すぎてマジで理解できないものもチラホラありますが、ご容赦願いたいと思います。そしてこのアルバムおよび独演で描かれる世界に、答えはない。発表から2年がたつが、無論として公式からの作品解釈、ライナーノーツのようなものは一切ない。これはリスナー一人一人が、独演を観て、アルバムを聴いて、感じたものが正解、ということなのだろう。それから数々の考察サイトをあさり、幾度となくアルバムを聴き返した。そして今回改めて独演を観て、全曲全歌詞の解釈をするに至りました。すごいはしょったけど。 2時間ずっと想像を超える漢、三浦大知 ~COLORLESSツアー感想~ 三浦大知 最強セットリスト(仮) 月別アーカイブ. 先日、三浦大知の独演「球体」の世界同時上映がYouTubeにて行われた。 7月23日(木)21:00より「球体」独演をYouTube Premieres(プレミア公開)で世界同時再上映を行います!YouTube Premieresは、映画のプレミア上映のように、リアルタイムに同じコンテンツを視聴して楽しめる機能で、アー…
失った君と再び巡り、次こそは球体的ループを抜け出そうとする、そんな新たな物語が始まるのである。プログレッシブ、ハウス、90年代のR&B、エレクトロニカ、ポストロックなどなどなど。このアルバムって、単純に音楽作品として楽しめるんだけど、それ以外にもその人自身が持っている教養があればあるほど、この作品の奥深さを知ってどんどん楽しめる、そういう多重性のある作品なのだ。というのも、仏教的には、蝶は亡き人の魂を浄土に運ぶ神聖な生き物らしいのだ。何が言いたいかというと、この作品は仏教だけでなく西洋哲学も参照して作品を作っているのではないか?ということであり、その知見の広さが単純にエグいよなーという話。90年代くらいから保守化しているダンスミュージックに風穴をあけて、こんなテンポのこんな音を使っても「踊れるんだぜ?」っていう見事に提示している、そういうエグさがある。(円盤で購入したら付いている球体のダンスパフォーマンスを観れば、それがよくわかると思う)こういう音をイントロに使うというセンスがまず秀逸なのだが、このアルバムをずっと聴いていくと、このアルバムのラストに収録されている「おかえり」のラストも、同じように波のせせらぎと船の汽笛で終わるようになっている。だが、この作品のアート性って、辛気臭いとか内向的とか、わかる人にしかわからない難解さとか、そういう類いのものではない、ということは言っておきたい。今まで三浦大知をスルーしてきた人の多くも「この作品はマジで凄いよ!」という評価をしており、個人的にも完全に同意である。だが、次の「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」という歌では「誰もいない」とフレーズから始まるとおり、もうそこに君がいないことが告発される。ただ難解な言葉が並べられていたり、感受性豊かっぽそうな言葉が並べられていることを文学的なんて評することがあるけれど、それとは全然違うレベルでこの歌たちは文学性を宿している。このアルバムは、アート性の本質に迫った作品であるとも言えるんじゃないかなーと思っていて。汽笛の超音3回というのは、慣習として「さようなら」というメッセージを示すものなのだ。飛行船をつかって対岸を飛び越えたこと、アルバムの末尾で船を使って海を越えてまた元の場所に戻るという構造がアルバム内にあることだけははっきりとわかるし、そこにお経というモチーフをはっきりと提示させることで、明らかに生と死や輪廻を意識させる作品に仕立てているわけだ。例えば、音楽的にもそうだし、アート的にもそうだし、アルバムのコンセプト達成具合もそうだし。三浦大知のダンスパフォーマンスは言わずもがな、ジャケットひとつとっても、歌詞のワンフレーズワンフレーズとっても全てが計算されていて。要は、どこからどう切り取っても面白いし、だから作品って凄いんだよっていう、そういう話。最後の歌のタイトルが「おかえり」になっているのも象徴的だが、その曲を跨ぎながら頭の「序詞」に繋がっていくそのままに、「序詞」の歌詞を見ていくと、君がいなくなってしまって失望した僕の前に、いなくなったはずの君が再び現れて、「ただいま」っていう場面がはっきりと見てとれる(ここは歌詞を見ながらじっくり聴いてほしい)ところで、「対岸の掟」という歌があるのだが、この対岸とは何を指しているのか?つまり、おかえりってタイトルで「さようなら」を告げており、さらにループした冒頭でまた「ただいま」って言うんですよ、このアルバム。だから、ループしてでも輪廻を越えてでも求め続けないといけないのではないか?そういう話であり、だからこそ、「世界」という歌では「君こそが世界の全て」まで言ってのけるのである。途中には「もしもこの人生が予行演習だったなら次はもっとうまくできるのに」というフレーズを差し込み、末尾では「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」というフレーズを歌うことで、今日が終わってしまうだけで主人公は次の未来に進めないことを暗示するフレーズになっている。このアルバムを聴いて解釈している僕そのものが、球体の世界に迷い込んでしまった主人公そのものというか。極めつけに、次の「嚢」という歌では、まるで生死を彷徨うのような音が配置されており、映像作品ではフラッシュバックのような光の点滅が施されているのである。よく○○という歌は文学的だという表現があるが、球体の全編通した歌詞こそまさしく文学的であると感じる。とにかく言えるのは、終わりがなく円環的に繰り返すという球体のようなモチーフが、アルバム全体の構造としてあるということであり、その構造を明確に意識した上で各楽曲を配置しているということである。(これが単純にエグい)三浦大知め、「本気で日本語でグラミー賞を取りに行こうとしているな!」っていう気概をビンビンに感じる作品だった。「まだ中継地点 また修正して」というのは、失敗した過去をもう一度やり直そうとしていくような印象を与えるフレーズだし、歌詞のラストで出てくる蝶も印象的で。アート性って雰囲気がオシャレだったり難解な感じがしたら言われがちな言葉だけど、本当のアートってそういうことではない。そして、この物語の実質的結末である「世界」という歌に向けて、僕と君は色んな世界を目指す、そんな物語のように読むことができるのである。(映像作品では、世界という歌だけ三浦大知が観客に向けてパフォーマンスしていることからも、この歌がひとつの結末であることを示していると言える)序詞の歌詞にある「いつかという幻の声」「帰りたい場所はあるのに行きたい場所が見つからない」というのは、主人公が球体的ループの世界にいることを示すフレーズだし、どうしたらそのループから抜け出すことができるのかと嘆く主人公という構造そのものが球体的であると言えるわけだ。だから、一度解釈の世界を飛び越えたつもりで、ようやく君という名の真理に出会えたと思ったらまた振り出しに戻されるというか。言ってしまえば、世界の模造品ではない、「日本の音楽」として成立させているのである。まるで、いなくなった君を今度こそ手に入れるために、今度こそうまくいく未来を選ぶために、また同じ時間をループする、そんな雰囲気を出しながら。というよりも、文学的解釈をもってアプローチすればするほど面白い解釈ができるというか。その片割れの相手を見つけたとき、完全無欠の愛を手に入れることができる!みたいな話なのだ。聴いて最初の感想はそれだったが、ちゃんと聴けば小袋とはまた違う味わいがあったというか、これ全然小袋と違うわというか、明らかに三浦大知の作品だわというか。ちなみにこのアルバムがまどかマギカ的SF世界だなーと感じるのは、次の「硝子壜」以降から、まるで僕と君がいくつもの並行世界に分岐して、僕と君が最適解を探すため、幾つものパターンの未来を掴もうと行動しているように読めるためである。アルバムの最後から3番目にある「世界」という歌では明らかに僕と君が巡り合っており、証拠に「隣に君がいて隣に僕がいる」というフレーズが差し込まれることがわかる。とはいえ、普通こういうハイブリットな音楽ってどうしても「海外の輸入もの」というラベリングが貼られることが多いし、実際精度は高いけれど海外に似たような音楽あるじゃん!みたいな状態に陥ることが多い。また、細かくは書かないが、これ以外にも各楽曲間で細かく歌詞の繋がりがあり、聴けば聴くほど球体の世界にのめり込んでしまう恐ろしさがあるのである。繋げて歌詞を読んでもらったらわかるけど、はっきりこの歌詞たちは繋がっているのである。アルバムのラストでループしていく際には船を使って海を渡っていることがわかるが、アルバム中盤でも「渡っていく」というサマが描かれている。しかし、この歌がまだゴールでないことは、次の歌である「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」を聴けば明らかである。(だって、また君を失ってしまうのだから)そのせいで、男女は別々の存在になってしまい、元の片割れの相手を彷徨うになった。しかも、その文学的解釈というのは単に歌詞を深読みするという話ではなく、音に仕込まれた計算や、三浦大知のダンスパフォーマンスと紐付けて解釈できるようになっており、そこに仕掛けられたパズルをひとつひとつ拾っていくことで、球体というアルバムが持つ物語そのものが奥深くなるという構造を持っているのである。(全てが密接に繋がっているから「球体」というアルバムはやばいという話に繋がる)マジで「球体」ってアルバムは、やばいからぜひ聴いてみてくださいよ、と。なぜ、僕と君はそこまでしてずっと求め合うのか?ということに対して補助線を引いて考えるときに、プラトンという哲学者が唱えた「球体論」という話をひとつ、参照にすることができる。実際問題、この記事でさらーっと文章を綴ってみたが、本当はまだまだ言いたいことたくさんがあるし、まだ言いたいことの10分の1も言えてない実感がある。(そういう話をしていたら文字数がエライことになるので、今回は割愛します)このアルバム、17曲収録されていて、その内いわゆる歌モノは13曲なんだけど、どの楽曲もすごく水準が高いのである。そういう疑問も出てくるかと思うので、ここからはもう少し細かく「球体」というアルバムについて考えていきたい。この作品がアート的であると言えるのは、アルバムに収録されている全曲が繋がりを持っているということ、音と歌詞とダンスやCDジャケットなどの視覚的要素が全て有機的につながっていて、共犯的なメッセージを宿しているということ。で、ちょっと今は疲れているし辛気臭いアートはちょっとな……って気分になっている人もいるではないか?と思うのだ。たぶんこの作品を聴いた人が感じるのは、普段はポップソングを歌う三浦大知が、やたらとアートな作品を作ったぞ、みたいな感触じゃないかと思う。まあ、これ以上言葉を綴っても終わらないので、最後にこれだけは言いたい。そして、ダンスミュージックというベースはありながら、本当に色んなジャンルの音楽を参照している。この演出だけでも十分トリッキーなのだが、なぜループする構造を取っているのか?という理由が作品世界に没頭すればするほどわかる仕組みになっているのである。色んな意見があるとは思うが、これは、生と死の世界を示しているように思われる。ほんと、フレーズひとつひとつを色んな意味に解釈することができるし、どのフレーズもちゃんと構造的に言葉が配置されているんですよ、このアルバムの曲たちは。ボーカルによる歌詞の表現力、どっから声を出してるねんと突っ込みたくなるような美しきファルセット、表現力は豊かなのに決して主張は激しくない丁寧なボーカリング、「序詞」にある「ただいま」というセリフひとつ取っても、すごくグッときちゃうのだ。三浦大知が振り付けした球体の映像作品と合わせて観れば、アルバムの表情がまた変わって見えてくるし。その蝶がラストで登場するのだから、対岸がほり生死の世界を示している感は色濃くなる。けれど、ゼウス神が人間のあまりの仲の良さに嫉妬して、ある時、その球を半分にカットしてしまったのだ。例えば、このアルバムは「序詞」という歌から始まるが、この歌のイントロは波のせせらぎと船の汽笛で始まる。ほんと変わった音の使い方をしている場面にたくさん出会うのである。聴いていくと。そこで、球体というアルバムは、こういうところが推せるんだぜ!という個人的な意見を感想ベースで紹介していきたい。球体という丸のモチーフはすごく仏教的だなーと感じるのだが、実際、この「球体」というアルバムはすごく仏教的なモチーフを取り入れており、輪廻を意識させる流れになっている。繋げて聴けばわかるが、アルバムのラストと「序詞」の最初は繋がっており、アルバム自体が球体的にループする構造になっている。しかも、また主人公が円環してしまうことを揶揄するかのように、2曲目のタイトルを「円環」にしているのがもう憎くて。アルバムの中盤で、対岸している二つの世界を飛行船を使って飛びこえようしているところである。(テレパシー→飛行船→対岸の掟という楽曲の流れである)何より、こういう球体的解釈(終わりがない解釈)に引き込まれた時点で、球体というアルバムの輪廻的世界に僕自身が放り込まれたのかなーなんていう気がする。全体的な完成度を志向して、どこまでも全てが繋がりをもったエグいアルバム=アートになっているわけだ。「円環」という歌で「プレリュード」や「幕開け」という言葉を使用することで、主人公がまた球体的ループ世界をやり直そうとするサマが見て取れるわけだ。その一方で、きちんとエンターテイメント性も持っていて、捉えようによっては、このアルバムはSF的な解釈もできるように作られている。「序詞」の歌詞は、アルバムのオープニングという位置づけなのではなく、球体というアルバムを一巡して聴いて、僕の物語を聴き手と一緒に探求したあとに、意味が理解できるような歌詞になっているわけだ。ちなみに、末尾の汽笛にもトリックが仕込まれていて、ちゃんとループして繋げて聴くと、10秒の汽笛が9秒の感覚で鳴らされていることがわかる。遥か昔、男女は1つの球であり、一体だけの存在であり、その男女は完璧な相性だった。ただ、言えるのはこの作品はこんな見方もできるし、こういう楽しみ方もできるし!っていうのが次々と言葉に浮かんでくるアルバムということであり、だからこそ、凄いんですよという話。