2018年5月、某女子大の中にあるホール・人見記念講堂の7列目で私はとんでもない公演を目撃しました。三浦大知のアルバム『球体』独演。 リリースから半年近く経った今も、このアルバムが私に与えるインパクトは衰えず、今キーボードを叩いています。 6月27日に発売予定だった三浦大知のアルバム「球体」が7月11日に発売延期となりました。理由はこのアルバムのための撮り下ろし映像「『球体』独演」が完成に至っていないためだそうです。なお、同日に発売予定だったライブ映像作品「daichi mi マジで「球体」ってアルバムは、やばいからぜひ聴いてみてくださいよ、と。というよりも、文学的解釈をもってアプローチすればするほど面白い解釈ができるというか。三浦大知め、「本気で日本語でグラミー賞を取りに行こうとしているな!」っていう気概をビンビンに感じる作品だった。その一方で、きちんとエンターテイメント性も持っていて、捉えようによっては、このアルバムはSF的な解釈もできるように作られている。そこで、球体というアルバムは、こういうところが推せるんだぜ!という個人的な意見を感想ベースで紹介していきたい。また、細かくは書かないが、これ以外にも各楽曲間で細かく歌詞の繋がりがあり、聴けば聴くほど球体の世界にのめり込んでしまう恐ろしさがあるのである。ほんと変わった音の使い方をしている場面にたくさん出会うのである。聴いていくと。三浦大知のダンスパフォーマンスは言わずもがな、ジャケットひとつとっても、歌詞のワンフレーズワンフレーズとっても全てが計算されていて。このアルバムって、単純に音楽作品として楽しめるんだけど、それ以外にもその人自身が持っている教養があればあるほど、この作品の奥深さを知ってどんどん楽しめる、そういう多重性のある作品なのだ。この演出だけでも十分トリッキーなのだが、なぜループする構造を取っているのか?という理由が作品世界に没頭すればするほどわかる仕組みになっているのである。だから、一度解釈の世界を飛び越えたつもりで、ようやく君という名の真理に出会えたと思ったらまた振り出しに戻されるというか。とはいえ、普通こういうハイブリットな音楽ってどうしても「海外の輸入もの」というラベリングが貼られることが多いし、実際精度は高いけれど海外に似たような音楽あるじゃん!みたいな状態に陥ることが多い。アート性って雰囲気がオシャレだったり難解な感じがしたら言われがちな言葉だけど、本当のアートってそういうことではない。このアルバム、17曲収録されていて、その内いわゆる歌モノは13曲なんだけど、どの楽曲もすごく水準が高いのである。三浦大知が振り付けした球体の映像作品と合わせて観れば、アルバムの表情がまた変わって見えてくるし。全体的な完成度を志向して、どこまでも全てが繋がりをもったエグいアルバム=アートになっているわけだ。その片割れの相手を見つけたとき、完全無欠の愛を手に入れることができる!みたいな話なのだ。アルバムのラストでループしていく際には船を使って海を渡っていることがわかるが、アルバム中盤でも「渡っていく」というサマが描かれている。ちなみに、末尾の汽笛にもトリックが仕込まれていて、ちゃんとループして繋げて聴くと、10秒の汽笛が9秒の感覚で鳴らされていることがわかる。ただ、言えるのはこの作品はこんな見方もできるし、こういう楽しみ方もできるし!っていうのが次々と言葉に浮かんでくるアルバムということであり、だからこそ、凄いんですよという話。こういう音をイントロに使うというセンスがまず秀逸なのだが、このアルバムをずっと聴いていくと、このアルバムのラストに収録されている「おかえり」のラストも、同じように波のせせらぎと船の汽笛で終わるようになっている。極めつけに、次の「嚢」という歌では、まるで生死を彷徨うのような音が配置されており、映像作品ではフラッシュバックのような光の点滅が施されているのである。プログレッシブ、ハウス、90年代のR&B、エレクトロニカ、ポストロックなどなどなど。このアルバムは、アート性の本質に迫った作品であるとも言えるんじゃないかなーと思っていて。今まで三浦大知をスルーしてきた人の多くも「この作品はマジで凄いよ!」という評価をしており、個人的にも完全に同意である。「序詞」の歌詞は、アルバムのオープニングという位置づけなのではなく、球体というアルバムを一巡して聴いて、僕の物語を聴き手と一緒に探求したあとに、意味が理解できるような歌詞になっているわけだ。要は、どこからどう切り取っても面白いし、だから作品って凄いんだよっていう、そういう話。ほんと、フレーズひとつひとつを色んな意味に解釈することができるし、どのフレーズもちゃんと構造的に言葉が配置されているんですよ、このアルバムの曲たちは。何より、こういう球体的解釈(終わりがない解釈)に引き込まれた時点で、球体というアルバムの輪廻的世界に僕自身が放り込まれたのかなーなんていう気がする。繋げて歌詞を読んでもらったらわかるけど、はっきりこの歌詞たちは繋がっているのである。最後の歌のタイトルが「おかえり」になっているのも象徴的だが、その曲を跨ぎながら頭の「序詞」に繋がっていくそのままに、「序詞」の歌詞を見ていくと、君がいなくなってしまって失望した僕の前に、いなくなったはずの君が再び現れて、「ただいま」っていう場面がはっきりと見てとれる(ここは歌詞を見ながらじっくり聴いてほしい)球体という丸のモチーフはすごく仏教的だなーと感じるのだが、実際、この「球体」というアルバムはすごく仏教的なモチーフを取り入れており、輪廻を意識させる流れになっている。汽笛の超音3回というのは、慣習として「さようなら」というメッセージを示すものなのだ。だが、次の「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」という歌では「誰もいない」とフレーズから始まるとおり、もうそこに君がいないことが告発される。聴いて最初の感想はそれだったが、ちゃんと聴けば小袋とはまた違う味わいがあったというか、これ全然小袋と違うわというか、明らかに三浦大知の作品だわというか。このアルバムを聴いて解釈している僕そのものが、球体の世界に迷い込んでしまった主人公そのものというか。で、ちょっと今は疲れているし辛気臭いアートはちょっとな……って気分になっている人もいるではないか?と思うのだ。そのせいで、男女は別々の存在になってしまい、元の片割れの相手を彷徨うになった。まるで、いなくなった君を今度こそ手に入れるために、今度こそうまくいく未来を選ぶために、また同じ時間をループする、そんな雰囲気を出しながら。飛行船をつかって対岸を飛び越えたこと、アルバムの末尾で船を使って海を越えてまた元の場所に戻るという構造がアルバム内にあることだけははっきりとわかるし、そこにお経というモチーフをはっきりと提示させることで、明らかに生と死や輪廻を意識させる作品に仕立てているわけだ。なぜ、僕と君はそこまでしてずっと求め合うのか?ということに対して補助線を引いて考えるときに、プラトンという哲学者が唱えた「球体論」という話をひとつ、参照にすることができる。けれど、ゼウス神が人間のあまりの仲の良さに嫉妬して、ある時、その球を半分にカットしてしまったのだ。というのも、仏教的には、蝶は亡き人の魂を浄土に運ぶ神聖な生き物らしいのだ。アルバムの中盤で、対岸している二つの世界を飛行船を使って飛びこえようしているところである。(テレパシー→飛行船→対岸の掟という楽曲の流れである)つまり、おかえりってタイトルで「さようなら」を告げており、さらにループした冒頭でまた「ただいま」って言うんですよ、このアルバム。遥か昔、男女は1つの球であり、一体だけの存在であり、その男女は完璧な相性だった。「円環」という歌で「プレリュード」や「幕開け」という言葉を使用することで、主人公がまた球体的ループ世界をやり直そうとするサマが見て取れるわけだ。ボーカルによる歌詞の表現力、どっから声を出してるねんと突っ込みたくなるような美しきファルセット、表現力は豊かなのに決して主張は激しくない丁寧なボーカリング、「序詞」にある「ただいま」というセリフひとつ取っても、すごくグッときちゃうのだ。そして、この物語の実質的結末である「世界」という歌に向けて、僕と君は色んな世界を目指す、そんな物語のように読むことができるのである。(映像作品では、世界という歌だけ三浦大知が観客に向けてパフォーマンスしていることからも、この歌がひとつの結末であることを示していると言える)実際問題、この記事でさらーっと文章を綴ってみたが、本当はまだまだ言いたいことたくさんがあるし、まだ言いたいことの10分の1も言えてない実感がある。(そういう話をしていたら文字数がエライことになるので、今回は割愛します)しかも、その文学的解釈というのは単に歌詞を深読みするという話ではなく、音に仕込まれた計算や、三浦大知のダンスパフォーマンスと紐付けて解釈できるようになっており、そこに仕掛けられたパズルをひとつひとつ拾っていくことで、球体というアルバムが持つ物語そのものが奥深くなるという構造を持っているのである。(全てが密接に繋がっているから「球体」というアルバムはやばいという話に繋がる)何が言いたいかというと、この作品は仏教だけでなく西洋哲学も参照して作品を作っているのではないか?ということであり、その知見の広さが単純にエグいよなーという話。序詞の歌詞にある「いつかという幻の声」「帰りたい場所はあるのに行きたい場所が見つからない」というのは、主人公が球体的ループの世界にいることを示すフレーズだし、どうしたらそのループから抜け出すことができるのかと嘆く主人公という構造そのものが球体的であると言えるわけだ。だから、ループしてでも輪廻を越えてでも求め続けないといけないのではないか?そういう話であり、だからこそ、「世界」という歌では「君こそが世界の全て」まで言ってのけるのである。ただ難解な言葉が並べられていたり、感受性豊かっぽそうな言葉が並べられていることを文学的なんて評することがあるけれど、それとは全然違うレベルでこの歌たちは文学性を宿している。だが、この作品のアート性って、辛気臭いとか内向的とか、わかる人にしかわからない難解さとか、そういう類いのものではない、ということは言っておきたい。しかも、また主人公が円環してしまうことを揶揄するかのように、2曲目のタイトルを「円環」にしているのがもう憎くて。例えば、このアルバムは「序詞」という歌から始まるが、この歌のイントロは波のせせらぎと船の汽笛で始まる。90年代くらいから保守化しているダンスミュージックに風穴をあけて、こんなテンポのこんな音を使っても「踊れるんだぜ?」っていう見事に提示している、そういうエグさがある。(円盤で購入したら付いている球体のダンスパフォーマンスを観れば、それがよくわかると思う)失った君と再び巡り、次こそは球体的ループを抜け出そうとする、そんな新たな物語が始まるのである。言ってしまえば、世界の模造品ではない、「日本の音楽」として成立させているのである。例えば、音楽的にもそうだし、アート的にもそうだし、アルバムのコンセプト達成具合もそうだし。ちなみにこのアルバムがまどかマギカ的SF世界だなーと感じるのは、次の「硝子壜」以降から、まるで僕と君がいくつもの並行世界に分岐して、僕と君が最適解を探すため、幾つものパターンの未来を掴もうと行動しているように読めるためである。「まだ中継地点 また修正して」というのは、失敗した過去をもう一度やり直そうとしていくような印象を与えるフレーズだし、歌詞のラストで出てくる蝶も印象的で。繋げて聴けばわかるが、アルバムのラストと「序詞」の最初は繋がっており、アルバム自体が球体的にループする構造になっている。たぶんこの作品を聴いた人が感じるのは、普段はポップソングを歌う三浦大知が、やたらとアートな作品を作ったぞ、みたいな感触じゃないかと思う。まあ、これ以上言葉を綴っても終わらないので、最後にこれだけは言いたい。しかし、この歌がまだゴールでないことは、次の歌である「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」を聴けば明らかである。(だって、また君を失ってしまうのだから)途中には「もしもこの人生が予行演習だったなら次はもっとうまくできるのに」というフレーズを差し込み、末尾では「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」というフレーズを歌うことで、今日が終わってしまうだけで主人公は次の未来に進めないことを暗示するフレーズになっている。色んな意見があるとは思うが、これは、生と死の世界を示しているように思われる。ところで、「対岸の掟」という歌があるのだが、この対岸とは何を指しているのか?アルバムの最後から3番目にある「世界」という歌では明らかに僕と君が巡り合っており、証拠に「隣に君がいて隣に僕がいる」というフレーズが差し込まれることがわかる。よく○○という歌は文学的だという表現があるが、球体の全編通した歌詞こそまさしく文学的であると感じる。そして、ダンスミュージックというベースはありながら、本当に色んなジャンルの音楽を参照している。とにかく言えるのは、終わりがなく円環的に繰り返すという球体のようなモチーフが、アルバム全体の構造としてあるということであり、その構造を明確に意識した上で各楽曲を配置しているということである。(これが単純にエグい)この作品がアート的であると言えるのは、アルバムに収録されている全曲が繋がりを持っているということ、音と歌詞とダンスやCDジャケットなどの視覚的要素が全て有機的につながっていて、共犯的なメッセージを宿しているということ。そういう疑問も出てくるかと思うので、ここからはもう少し細かく「球体」というアルバムについて考えていきたい。その蝶がラストで登場するのだから、対岸がほり生死の世界を示している感は色濃くなる。
!追加アイテム登場!; 2020/05/29 「daichi miura live tour 2019-2020 colorless」無期限延期と返金に関するご案内 三浦大知オフィシャルファンクラブ「大知識」 2020/06/18 6/18(木)より各種音楽配信サービスにて「yours」の配信がスタート!; 2020/06/17 「daichi miura live tour 2019-2020 colorless」グッズ通信販売実施中! 従来の三浦大知の楽曲とは異なるサウンドメイクも印象に残った。bpm高めのエレクトロチューンも含まれているのだが、それは観客を盛り上げたり踊らせるものではなく、あくまでも『球体』という世界観を描くために機能していた。 歌詞に海出しちゃったら一発でチル、チル確定で孤独、だけど独りよがりじゃない感じ。「人生」と書くあたり渋い。リリースから半年近く経った今も、このアルバムが私に与えるインパクトは衰えず、今キーボードを叩いています。さらに、この言及を踏まえ別のエライ人(ディレクターさん)にも波及。あ~りがて~え。振付から感情が見えるというか、振付そのものが美しいというか、この曲はリード曲然としたリード曲。ドラマチックで起承転結の「転」というイメージ。実はこのインパクトはファンに留まらず、いわゆる”音楽玄人”界隈にも爆風を吹かせた作品でした。三浦大知をMステに出るポップスターとしか評価していなかった人々の心にもがっつり爪痕を残し、「三浦大知はエキサイ兄さんじゃなかったのか」と話題になりました。2018年最高傑作と評する人も少なくなかった。安室奈美恵が引退しようと、宇多田ヒカルが初恋を歌おうと、ノーマークだった三浦大知が異常な完成度で『球体』を発表したことはそれくらい事件だった。孤独を美化する姿勢は、人物描写だけじゃなく、風景描写にも表れている。2018年5月、某女子大の中にあるホール・人見記念講堂の7列目で私はとんでもない公演を目撃しました。三浦大知のアルバム『球体』独演。『飛行船』はこのアルバムのリード曲。和楽器の尺八とパリピ音楽のEDMを共存させるという、引くくらいの天才っぷりさを露見させた曲。この間奏のダンスを生で観たときは「死ぬなら今」って思いましたね。振付がカッコイイ通り越して美しい。地上波では2回披露しているんだけど、ダンスの激しさにカメラマンが三浦の姿を追えず、ダンスの半分を客席を映して誤魔化したという伝説も出来た(ファン激おこ回でもあった)。直接の関係者でもない振付師にも言及された。このフレーズでまたボーっと出来る。最後までなんて美しい余白なんだー。こういう抽象的な表現がちらほらあって、その余白でボーっと出来るのがすごくいい。「分かっていた気でいた自分」を客観的に眺めている主人公の様子が伝わってくる。でも仕方なくそうしていたことも(メロディー的に)伝わる。『球体』公演は、残念ながらなのか計画的だったのか、話題になる前にツアーを終了しました。このアルバムに懸ける彼の気迫をツアー初日、しかも7列目で感じられたことは間違いなく私の人生において価値があったことだと思っています。歌詞を読んでなんてショッキングで美しいんだと思いました。淡水魚は大海を目指したら死にます。でもそうしなきゃいけない背景を想起させる。有り得ない(?)光景、見たことが無い光景なはずなのに、佇むライオンが浮かぶしそのライオンめちゃくちゃカッコよくないですか?砂食む旅人も確かにそこにいる。凡人にも浮かぶ光景を唄っているのに、手垢がなく新鮮。他にも、どストレートであり壮大でもあり最期と永遠を同時に感じる『世界』という曲もあったりして、『球体』の完成度たるや実は邦楽史に残るレベルじゃないかと思っています。またこの路線を、あの”エキサイお兄さん”がやってキマッたっていうのが最高なところ。『球体』は全曲暗いです。アンビエント、チル、プログレッシブ……音楽玄人界隈の皆さんはこう表現しました。孤独をさりげなく美化するような温かさがある。 三浦大知が振り付けした球体の映像作品と合わせて観れば、アルバムの表情がまた変わって見えてくるし。 そこで、球体というアルバムは、こういうところが推せるんだぜ!という個人的な意見を感想ベースで紹介していきたい。 音楽作品としての球体