将来英語を使った仕事をしたい高校生にとって、通訳と並んで人気の職業の翻訳家。でも、憧れる人が多い反面、あまり実態の知られていない職業でもあります。翻訳家になるにはどうすればいいのか?早いうちから知っておくと、役に立つ情報をお伝えします。 All Rights Reserved 翻訳家を目指す人へ。翻訳家の仕事内容、なる方法、資格の必要性、給料、年収、やりがい、苦労など、翻訳家に関するさまざまな記事を掲載。そのほか、関連の職業やインタビュー、コラムなど、職業探しのための情報が満載。 飛幡 祐規(たかはた ゆうき、女性、1956年 - )は、東京都出身のフランス文化研究家、翻訳家、作家。本名は田代 優子(たしろ ゆうこ)。 東京都の高校からパリ第5大学への進学者 全国のパリ第5大学の出身者 : 1956年生まれの人: 6 2014年、女性とテクノロジーの持つ可能性とをつなぐ「Women Will」プロジェクトをアジア全域でローンチ。女性の支援だけでなく、女性を取り巻く人々に向けてメッセージを発信する。岩村がよく口にするのが、「チームを家族に、家族をチームに」。「家族は、何があっても守ってくれる存在。会社での関係も、そんな風にしておくのが大切だと思います」。1964年生まれ。2002年単身タイに渡りマッサージ店、アジアハーブアソシエイションを設立。現在は年間25万人が訪れる人気店に。13年にロート製薬と現地で合弁会社を設立。2004年に英国で「バイオプレゼンス」、後に「BCL」を設立。国内外のプロジェクトを多く手がける。Google ATAP プロジェクトジャカード テキスタイル・クリエイティブリード。1973年生まれ。2001年よりILOで活動。13年、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の国際部ディレクターに任命。プレゼンター、及び質疑応答の進行役として招致成功に導いた。レストラン「n/naka」オーナーシェフ。米国で生まれ育ち、料理学校を卒業した後、日本で3年間料理の修業を行う。米国でさらに経験を積んだ後、「n/naka」をオープン。創作懐石料理の店として、話題を集める。「(ミッションは)、まずはトライしてみること」1989年に講談社の奨学金、「野間アジアアフリカ奨学金」を受けてシリアに渡航したことがキャリアのターニングポイントになった。アレッポ博物館客員研究員として日本、シリア、ヨーロッパなど各国の主導する考古学的調査、修復事業などに携わる。その後フリーとなって、同様の活動を継続した。「人、特に子供の手助けをすることは、もっとも意味のある人生の時間の使い方だと考えています。若者が希望や大志、理想について話しているのを聞くことは大きなモチベーションになっています」。子供の権利向上を目的として行っているユニセフ活動に携る。2003年にオマーン事務所の代表になった時は37歳で、代表としては当時最年少だった。1975年生まれ。2001年渡米。02年シリコンバレーでアパレル業界に参入。100年以上の歴史を持つ奈良県広陵町の靴下を世界へ伝えるべく、tabbisocksを創業。現在は北米・アジア太平洋地域で400を超える店舗で取り扱い。自身と会社にとってのミッションは同一。「Reinvent yourself(自分を改革せよ)」。人はどんどん自分の人生を改革し、前進することができる。個人的には幼い頃から、両親の仕事の都合でデトロイト、トロント、メキシコなどに移り住み、環境が変わった経験から、個性とダイバーシティ(多様性)もテーマです。1994年プリンストン大学歴史学部卒業。オックスフォード大学より国際関係修士号、同博士号を取得。同校で教鞭をとった後、政策研究大学院大学、イスラエル国立ヘブライ大学などで研究、執筆活動を行う。2002年早稲田大学卒業後、教育系出版社の編集者に。アイルランドで在外公館派遣員、ニジェールにて青年海外協力隊の活動などを経験。帰国後、政策研究大学院大学に入学・修了を経て、世界銀行入行。2019年完成予定の公立美術館M+のデザイン&建築キュレーターとして、収蔵作品の収集や展示企画などに携わる。1995から2015年までスウェーデン、16年から香港在住。共著に『リサ・ラーソン作品集』。経営学者、一橋大学名誉教授。慶応大学教授、日清ホールディングス社外取締役、富士通社外取締役、双日社外取締役などを歴任。著書に『グローバルキャリア』(東洋経済新報社)など。「アートやカルチャーなど、ジャンルを問わず世界に誇る日本人女性は多くいる。一流に国境は関係ない。後に続く人に期待しています」。初めてガーナを訪れた時、原は大失恋の直後だった。ボナイリの人々はもてなしの心が厚く、人柄も温かい。現地で傷付いた心が癒され、彼らに愛着を感じたことが現在の活動のきっかけに。「目標は、村の人々が経済的自立と社会還元のエコシステムを実現すること」。村で初めての幼稚園や工房などの建物の建設に尽力し、布製品の製作指導などを行っている。リスト作成に当たって、2016年3~6月、各分野を代表するアドバイザリーボード7人(トム・ケリー氏、久能祐子氏、小山薫堂氏、石倉洋子氏、キャシー松井氏、田瀬和夫氏、林恭子氏、プロフィールは下記参照)から「ミッションを持ち、海外で活躍する日本の女性」のテーマで推薦者を募り、編集部から候補を加えたリストから55人に厳選。さらにそのリストの中から無記名での推薦を募り、ピックアップ記事の参考とした。1970年に南カリフォルニア大学公共行政学学士号、72年に同修士号取得。88年に全米日系人博物館の初代館長に就任。2008年に米日カウンシルを創設。東日本大震災後に「TOMODACHIイニシアチブ」を創設。ニューヨーク、ロンドン、東京を行き来しながら育つ。ミッションは、建築とデザインで人々の毎日の生活の質を向上させること。「空間は、日常生活と密接しているので、些細なことでも価値観が変わる瞬間を生み出すことができる」。女性が圧倒的に少ない建築業界で、時間と場所に制約を受けない働き方を推奨するなど、柔軟な考え方、臨機応変な態度で備えている。2013年より、インパクト投資を行う米国のNPO、Acumenに参加。貧困解決にはセクター・国境を超えた人材の育成と、似た志を持つ人々をつなげるコミュニティが大切、と考えるAcumenではリーダー育成にも力を入れる。科学やテクノロジーがいかに人の価値観や社会に影響を及ぼすかを考察する作品を制作、発表している。作品に「ムーンウォーク☆マシン、セレナの一歩」など。第11回「ロレアル_ユネスコ 女性科学者 日本特別賞」受賞。クーパー・ユニオン大学建築学部卒業 。1981年に独立。95年ハーバード大学の教授就任GSD女性最初のテニュア。02年から08年まで同大学院建築学部長。08年シンクタンクVisionarc 設立。「自分が今あるのは多くの人の助けがあってこそ」「停電や断水時は医療者としての多少の知識や技術があってもどうにもならない」「臨床医として自分が最大限頑張っても救えない命があることを目の当たりにし、一臨床医として働くことの限界を感じ、保健システムとして一人でも多くの妊産婦さんを救うにはどうすればよいかを考えるようになった」世界10カ国に拠点を持ち、『デザイン思考』を提唱するデザインファームIDEOの共同創業者。Japan Innovation Network理事。「推薦者を選ぶに当たっては、IDEO Tokyoの仲間と友人たちに、プロセスを”クラウドソーシング”し、厳選しました。最終的なリストは非常に興味深い活動をし、達成している女性たちが多く驚きました」。ドキュメンタリー映画をつくりたい、という強い思いがあったわけではない。NHKのアメリカ総局に入社し、「おはよう日本」の経済ニュースでキャスターを務めた後、ドキュメンタリーの取材をするようになったことで、自分はリアルな世界のリアルな人の物語に興味があると気づく。「世の中があまり目を向けないようなところにカメラを向けて、声なき人の物語を伝えたい」。1960年生まれ。国連ボランティアなどを経て、ユニセフにて子供の権利向上を目指す活動を開始。コソボ、モンテネグロ、タジキスタン、ウクライナの各所で事務所代表(97年~)を務めて現職に。1984年生まれ。東京大学在学中にネイキッドテクノロジーを創業。2011年に同社をmixiに売却。12年にCinnamonをシンガポールに創業、ベトナム、台湾、バンコクに拠点を展開。放送作家・脚本家。オレンジ・アンド・パートナーズ代表取締役本誌で人気連載執筆中。「海外で日本人女性が活躍するためには、コミュニケーション能力はもちろんですが、それ以上に日本人の本能ともいえる『慮る力』が大きな武器になると思います。加えて、日本文化を自分の価値観に染み込ませる力が必要ではないでしょうか」。1988年、上智大学卒。90年より国連事務局情報収集調査局、選挙支援部などで活動。2010年に国際連合広報センター所長、2012年にニューヨーク国連本部で政務局アジア・太平洋部部長に就任。1976年生まれ。2010年、10年勤めたリクルートを退職し、ワイン会社を設立。11年、ハンガリーへ移住。後にイタリアへ移り、食科学大学の大学院にて食科学を学ぶ。卒業後、GENを立ち上げた。ゴールドマン・サックス証券副会長、グローバル・マクロ調査部アジア部門統括、チーフ日本株ストラテジスト。1999年に「ウーマノミクス」という新しい概念を用いて、女性の労働力の拡大が日本経済に与える影響を分析したレポートを発表。女性を取り囲む社会環境の改善に取り組む。「アジア女子大学の設立を支援する会」共同代表。20~30代前半は、世界を舞台にプロフェッショナルとして通用する力をつけたい、と自分の成長にフォーカスしていた。BCGでの5年間で「自分の成長」がある程度達成できたように思い、世銀グループに入ってからは自らの能力を世の中に還元したいという思いが強くなった。(例えば、途上国の貧困削減や女性の立場の向上、子供の教育など)1970年生まれ。徳島大学医学部医学科卒業後、臨床経験を積み、バングラデシュで産婦人科臨床医として勤務。その後仏語圏アフリカ母子保健研修の受け入れなどを経てベトナム、ラオス、バングラデシュ等での調査研究に携わる。「(ミッションは)、アメリカと日本の関係をより良いものにし、この遺産を引き継いていく次の世代の若いリーダーたちを支援することです」全米日系人博物館の館長になることが決まった時に、以前から持っていた非営利組織への関心と、日系アメリカ人の物語が国内外の人々と共有され、日系アメリカ人のコミュニティに貢献したいという想いが重なった。デロイト トーマツ コンサルティング執行役員。元外務省、国連職員。国連「人間の安全保障委員会」では緒方貞子の議長補佐官を務める。「国連で能力を発揮する女性たちの共通点は、精神的にタフであり、オプティミストであること。また、異なる国籍の同僚や部下を納得させ、意見の対立に第3の定義を提示できる能力が求められます」。ニューヨーク市立大学卒業。同大学院パフォーミングアーツマネージメント修士課程修了。1997年にゴージャス・エンターテイメントを設立。2008年よりThe John Gore OrganizationのEVP(国際ビジネス開発担当)も兼務。1998年東大経済学部卒業、2005年スタンフォード大教育学部修士課程修了。国際協力銀行、国連児童基金などを経験。09年、軽井沢に世界中の高校1〜3年生を対象とする全寮制インターナショナルスクールを創設した。1996年東京大学文学部社会学科卒業。ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院修了。戦略系コンサルティング会社、証券会社を経て、結婚を機にシリコンバレーに移住。2013年Google入社。2014年京都大学卒業。リクルートに入社後、12年にハノイへ出向。14年クラウド型マーケティング・デザインサービス「GetJobDone」創業。15年ベトナム国内向けEコマース「Fact-depot」を共同創業。1988年東京大学教養学部卒業後、電通に入社。その後、スタンフォード大学にて経営学修士号を取得。外資系のラグジュアリーブランドのマネジメントなどに携わった後、2007年グーグルに入社。1963年生まれ。早稲田大学法学部卒業。米国ジョージタウン大学大学院修士。UNHCRでの様々なポジションを経て2005年から3年間一橋大学法学部、国際・公共政策大学院教授。14年より現職。貧困の撲滅と繁栄の共有を目指すMIGAの長官として、130人の職員と共に、政治リスク保険と信用補完を手がける。加えて、世界銀行グループ全体の経営会議チームの1人として、世銀改革にも取り組む。「MIGAのミッションは私自身のミッションでもあります」と、本田は語る。また、世銀グループMIGA職の人材育成にも力を注ぐ。母が亡くなったのをきっかけに、残りの人生、人の役に立つことがしたい、と思った。女性起業家、企業内起業家を支援するのは、それが本当に世の中にとって良いことだと信じているから。女性たちがさらに活躍することで持続可能性がある良識的な社会になり、またそれだけでなく、新たなビジネスチャンスを生み出すきっかけにもなる。1993年日本女子大学卒業。MBA取得後、ロンドンにて複数社での勤務を経て2013年から現職。統括会社経理部長として財務会計等の報告から、会計・税務を通した収益性向上の戦略立案まで幅広く担当する。1959年生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒業。メリルリンチ日本証券代表取締役、世界銀行グループ多数国間投資保証機関長官などを歴任。2005年には米ウォールストリート「注目すべき女性50人」に選ばれる。1973年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。77年国立公害研究所(現独立行政法人環境研究所)入所。2011〜16年3月国立環境研究所社会環境システム研究センター/フェロー。14年より現職を併任。1997年タフツ大学卒業、コロンビア大学国際公共政策大学院修士。MITメディアラボにてDirector’s Fellows Program、2011年より日米の起業家、研究者、アーティストを繋げるTofu Projectを運営。15年より現職。通りすがりの人から重要なインスピレーションを受けることもある。世の中がこうなったらいいのに、と思うことに関して、自分にできることをできる範囲でやる。大義名分を掲げているように見られることも多いですが、実際は自分にできることをやるだけ。むしろ、自分にできることなのにやらなかったり、見て見ぬ振りをしたりしないように心がけている。1963年生まれ。ハーバード大学卒業後、同大学MBA修了。84年からBCG東京およびNY事務所勤務を経てグローバル・エグゼクティブ・コミッティメンバー、マーケティングのグローバル・リーダーを務める。ペンシルバニア大学経営学大学院(ウォートンスクール)修士課程修了(MBA)。マッキンゼー・アンド・カンパニーのアジア部門初の女性シニア・パートナーなどを経て。2013年から現職。一女の母。「今の私があるのは小さい頃から聞かされていた祖母の言葉を意識してきたおかげです。思春期において白人ばかりの学校に通っており、なぜ自分だけ外見や価値観が違うのか、周りに自分と似たような境遇の身近な人がおらず、もがいていた時期が今の自分を形成していると思います。仕事のミッションは成長を重ね、少しでも多く社会に貢献できるような人になること」。「子育て、キャリア形成という大きな困難が同時にやってきたことが、むしろバネになってがんばれた」と語る齋藤。2011年9月、幼い2人の子供をつれてシングルマザーとしてハンガリーへ移住。子育てと並行して、現地の大学で味覚の勉強を始めた。12年にイタリアへ移住して食科学大学へ通ったのち、地域と食文化の国際教育・研修事業を行うGENを立ち上げた。グロービス経営管理本部本部長、マネージング・ディレクター。ボストン・コンサルティング・グループで人事担当リーダーとして能力開発、ウィメンズ・イニシアチブ・コミッティ委員等幅広く人材マネジメントを担当した経歴を持つ。経済同友会会員。著書に『女性プロフェッショナルたちから学ぶキャリア形成』(ナカニシヤ出版)など。「(ミッションは)、社会的投資の普及と啓発」カンボジア人の社会起業家との出会いからソーシャル・ファイナンスに着目するようになる。日本の個人・企業の出資者と途上国の社会起業家をつなぐプラットフォーム、ARUNを設立。社会的な意義と投資という二兎を追う難しい取り組みからこそ、イノベーションと応援者が集まると考えている。1958年生まれ。89年よりシリア・アレッポを拠点に数々の発掘調査に参加。JICAの専門家としてヨルダンで博物館教育活動に関与。シリア国立アレッポ大学考古学科講師を経験。シリア被災女性自立支援団体「イブラ・ワ・ハイト」発起人。ニューヨークで、中国、ベトナム、フィリピン、韓国、日本など、アジア人向け婚活アプリを運営している。一番嬉しいのは、ユーザーからの「『EastMeetEast』がなければ幸せになれなかった!」という言葉。アジア人は食、教育、家族を大切にして結婚に大切な価値観を共有している。ゆくゆくは、アメリカで「アジア人コミュニティ」が作られるきっかけとなりたい。1988年コーネル大学大学院卒業。みずほ銀行、KPMGピートマーウィック(M&A部門)を経て、ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)に入社。2002年に渡米し、現職。1987年上智大学卒業。スタンフォード大学大学院経営修士。ペイン・ウェーバー、インベスコなど金融でキャリアを築いた後、夫と共に資産運用会社と金融ロボアドバイザーの会社を経営。2006年早稲田大学政治経済学部卒業。リクルート入社後、経営企画、人材事業を経てグローバル派遣事業へ。イギリスにて買収後企業のトップとして経営再建を果たした後、R&D本部を経て2016年4月より現職。世界銀行グループMIGAの東京事務所長などを経て、2011年4月、東日本大震災後の被災地の支援を目的とする、ブルーフォー東北を設立。今年1月より笹川平和財団にて、アジアの高齢化問題などを扱っている。1964年生まれ。東京大学工学部卒業。スタンフォード大学大学院経営修士。三菱商事、マッキンゼーを経て2000年渡米。技術関連事業での日米企業間アライアンスと先端技術に関する戦略立案を行う。三菱商事を退職して私費でハーバードビジネススクールへ留学、2010年卒業。そこで出会ったジー・ツェンとともに、ファッションスタートアップ激戦区のニューヨークでMaterial Wrldを創業。ペンシルバニア大学ウォートンスクールを卒業後、シティバンク、モルガンスタンレーなど25年にわたる金融のキャリアを持つ。2012年グローバル・シチズン・イニシアチブを創設。1998年上智大学卒業、経済同友会事務局に勤務。内閣府国際平和協力本部事務局での研究員などを経て、2011年、国連コンゴ民主共和国安定化ミッション( 通称MONUSCO)に政務官として勤務。15年に異動し、現職。2008年京都大学大学院経済学博士。12年「グローバルレジリエンス研究所(IIGR)」を設立。15年米国連邦緊急事態管理庁(FEMA)関連団体の国際危機管理者協会(IAEM)に日本評議会が新設され会長に。銀行を退職して米国留学を決めた時、夫や家族、同僚は大反対。誰にも理解されない孤独を感じつつ渡米したのは、「専門職を身に付けて海外ネットワークを築きたい」という目標があったから。思い切って踏み出した一歩が、その後の華々しいキャリアにつながった。「少しでも海外に興味を持ったら、考える前にどんどん飛び出した方がいい」。1998年東京大学卒業。2000年から難民法、国際人権法などを専門に弁護士として活動。06年からヒューマン・ライツ・ウォッチに。紛争地や独裁国家の人権侵害を調査や、日本を人権大国にするための活動をしている。ウェスレアン大学で学士号を取得後、コロンビア大学大学院で ジャーナリズム修士号取得。1991年にUNICEF NY本部にて勤務を開始。各国の事務所代表、NY本部の公的資金調達局次長などを経て現職。オーストラリア初の日本人醸造家であるラドクリフ敦子。その存在が稀有であるのは、ワイン、日本酒のどちらの世界にも精通しているから。一度は日本酒造りに携わりたいという思いを払拭し、ワインの世界で経験を積むも、やがてIWCロンドンのSAKE部門の審査員を務めるまでになる。「日本酒は、日本人であるというルーツを掘り下げるきっかけとなる重要なもの」。「母親であることと、仕事の最前線にいることを両立する術を模索した期間は間違いなく節目で、どの経験も仕事面での成長をもたらしてくれました」仕事のミッションは、部下であれクライアントであれ、彼らがもつポテンシャルを最大限に引き出して、またそれを超えていくような大きな成果をあげる手助けをすること。東北新社に入社後、インド放浪の旅へ。ニューヨークに立ち寄り、日本に帰国するつもりが、そのまま残りニューヨーク在住歴29年。『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』(2010年)は日本でも話題に。スキャンポ・ファーマシューティカルズ共同創業者兼初代CEO、S&R財団理事長兼CEO。2015年にはForbes「米国自力成功女性50人」に日本人として唯一選ばれる。女性起業家を支援するプロジェクトにも多く関わる。「ミッションを持って海外に渡る日本人女性は多くいる。海外で活躍する女性にスポットを当てるのは素晴らしいこと」。1987年から90年にかけて、「ココ・ファーム・ワイナリー」でワイン製造、企画などを経験した後、海外のワイナリーで経験を積む。その後、日本酒造りに携わる。2013年に「スモール・フォレスト」を設立。視線追跡型VRヘッドセット「FOVE」の共同創業者、CEO。1987年生まれ。2014年にFOVE設立。開発は日本、ビジネスはサンフランシスコ、と2つの拠点を持つ。現在、スタッフは約30人。FOVEは今冬発売予定。1971年生まれ。大阪外国語大学外国語学部中国語学科卒、名古屋大学国際開発研究科修士課程修了、香港大学教育学系博士取得。在中国日本大使館専門調査員などを歴任。1982年生まれ。2004年、三井エージェンシー入社。アーティストのマネージメントなどを行う。14年、三井エージェンシーインターナショナルをロサンゼルスに設立、浮世絵プロジェクトを開始。1999年英国ケンブリッジ大学自然科学部物理学科卒業。証券会社勤務を経て2009年にマネックスグループに入社。新規事業開発およびコーポレートベンチャーキャピタルの運営を行っている。1972年生まれ。カリフォルニア州立大学を卒業後、1994年に米IBMに入社。複数のスタートアップを経験した後に、2013年に女性起業家専門のアクセラレーターWomen's Startup Labを設立。2002年ノックスカレッジ卒業。オックスフォード大学院修士。ロンドンで教育系モバイルアプリQuipperを創業、リクルートに売却、13年アジア人向けマッチングアプリEastMeetEastを起業。1977年生まれ。青年海外協力隊として、ニジェールでマラリアやエイズ予防に携わった。アフリカへの長期的な医療支援、経過観察を目的に、2013年、NPO法人AfriMedicoを立ち上げた。子供の頃の夢はパイロット。今の夢は、「人類全体を大きく進歩させたい、人類の進歩に寄与したい」。直近ではベトナムで人工知能コンテストを行い、トップエンジニアを採用。「Lean AI」というプロジェクトを始めた。AIをどう使って良いのかわからない、という企業向けに、まずはさくっと初めて進化させていこう、というもの。1989年生まれ。アメリカのテレビドラマ『HEROESREBORN/ヒーローズ・リボーン』に出演し、注目を集める。高校時代に、1年間アメリカに留学。一度帰国するも、2012年にロサンゼルスに本格移住。国際基督教大学卒業。民間企業、アジア学院勤務の後、1995年よりNGO、JICA、世界銀行の業務を通して、カンボジアの復興・開発支援に携わる。2009年にARUNを設立。現在は三菱商事100%英国子会社で、イギリス・ドイツの海底送電インフラ事業に関わる会計・税務業務に携わっている。難関試験への挑戦・専門職への憧れという漠然とした理由で会計士試験を始めた為、受験時に苦労したが、留学も含めて困難を乗り越える度に自分の活動・活躍の範囲が広がるのを実感している。ミッションは、自分も周りも幸せになること。1978年生まれ。東京都立大学大学院工学研究科を修了後、LIXIL(旧INAX)に入社。入社後は、システムエンジニアとして生産管理を手がける。現在はケニアで無水トイレの普及に尽力。2009年東京外国語大学卒業後、外務省入省。ガーナにおいてボランティアを行ったことをきっかけに、12年、ガーナ・ボナイリの人々の経済的自立などを支援するNGO MY DREAM.
こちらは、翻訳家・柴田元幸さん「教養を身につけても別に良いことはない」のページです。日刊工業新聞社のニュースをはじめとするコンテンツを、もっと新鮮に、親しみやすくお届けするサイトです。 松岡さんが翻訳を手がけてきた<うさこちゃん>シリーズのディック・ブルーナさんが2017年2月16日に、そして<パディントン>シリーズのマイケル・ボンドさんが6月27日に亡くなられ、原作者との悲しい別れが続きました。とはいえ、児童図書館員の募集は見つからない。そもそも公立図書館の職員になるには、地方公務員試験に合格する必要があるし、採用されても図書館に配属されるとは限らない。せっかく見つけた目標だが、そこに近づく手立てが見えないまま卒業した松岡さんは、慶應義塾大学の図書館学科の図書室で働いた。イギリス児童文学小史を卒論に選び、そのために大学図書室にあった本を読む過程で、松岡さんの頭に library という言葉が刻み込まれた。参考にした研究書がアメリカ図書館協会の刊行だったり、著者が図書館学校の教授だったりしたからだ。そもそも大学の蔵書に、児童文学関係の基本書が揃っていたのも幸運だった。発音も徹底的に仕込まれた。発音記号をすべてひとつひとつ教えられ、それまで認識していなかった母音の違いを教えてもらい、nとng 、thとs、sとshなど、モヤモヤしていた発音がクリアになった。中世英語で、自分では全く歯が立たないが、ドクター・ジェリフの解説を聞いていると、知的興奮を味わえる。「ああ、学問というのは、こういうことなんだ」と楽しさを知ることができた。1935年神戸市生まれ。神戸女学院大学英文学科、慶應義塾大学図書館学科卒業、ウエスタン・ミシガン大学大学院で児童図書館学専攻ののち、ボルティモア市立の公共図書館に勤務。帰国後、大阪市立中央図書館勤務を経て、自宅で家庭文庫「松の実文庫」を開き、児童文学の翻訳、創作、研究を続ける。1974年、財団法人東京子ども図書館を設立。理事長を経て、現在は名誉理事長。松岡さんが大学2年の時、父親が東京に転勤となった。両親は、東京の大学に入り直して一緒に東京で暮らすことも考えたようだが、松岡さんはチャンスとばかり、寮に入って神戸に残ることにした。昔から『あしながおじさん』に憧れていて、寮生活を体験したかったのだ。「寮生活はとっても面白かったです。2人部屋が基本なのですが、私は3年の時に寮長をしたので、寮長の特権でひとり部屋。毎月お誕生会をしたり、バザーのときに金魚すくいのお店を出したり。通学に時間がかからないから、たくさん本を読める。とにかく自分の好きなことをしていました。若い時は、そういうことが大事なのよね」新しい土地で、家庭教師をしながら今後の身の振り方を考えていた松岡さんに出会いが訪れる。この図書館学科で、松岡さんは将来を決定づける職業に出会う。児童図書館員だ。公共図書館で、子どもたちに読書をすすめる仕事である。しかも、児童図書館員の業務には、お話を語ること(ストーリーテリング)も含まれている。子どもが好きだが、小学校の先生は算数も教えなければならない、成績もつけなくてはいけないと選択肢から外していた松岡さんにとって、ピッタリの仕事。中学時代、同級生にお話を聞かせていたように、子どもたちに語ることもできるのだ。松岡さんが1958(昭和33)年に入った慶應義塾大学図書館学科は、1951年、日本に初めて開設された学科だった。松岡さんは最初、神戸女学院には学問的な刺激はあまりないと高をくくっていた。一方、今まさに翻訳中の『グリムのむかしばなし』(のら書店)の1巻が6月末に刊行され、早くも重版になったそうです。そこに、慶應の先輩で、アメリカ人と結婚しウエスタン・ミシガン大学大学院の図書館学科で学んだ石井さんから、留学生を推薦してほしいという照会がきた。「今のうちにもっと勉強して、将来に備えよう」と松岡さんは留学を決意する。高校時代と神戸女学院での猛勉強のおかげで、英語に不安はなかった。松岡さんのお姉さんは、神戸女学院の保育科を出て幼稚園の先生をしていたが、松岡さんが中学生の時に結婚し九州の大牟田に住んでいた。姉と同じ神戸女学院に進学することになり、阪神地方のお嬢さん学校ということもあり、お父さんも安心したようだ。「She sells sea shells by the seashore.という文章を反復練習したものです。この phonetic=音声学の授業のおかげで、発音に自信がつき、安心して英語を話せるようになりました」4年間の大学生活を終えて、父母が住む東京に来たのは1957(昭和32)年、日本の高度経済成長が始まりつつある時代である。翻訳は『しろいうさぎとくろいうさぎ』『町かどのジム』『おやすみなさいフランシス』『番ねずみのヤカちゃん』など多数の絵本、児童書のほか、大人向けの『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』など。*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。社会の変化によって、こどもたちが、お話や本をじっくりと楽しむことができなくなっているのでは、という問題意識が根底に流れています。松岡さんの危機感は、その後どうなっていくのか、社会はどのように変わっていったのか、テレビの他にも、パソコンやスマホが子どもたちの日常に入り込んでいる今、読み返してみたい1冊です。しかも、アメリカに留学していた渡辺茂男先生が戻ってきて、ちょうど来年から教壇に立つというタイミング。「終戦後、アメリカからの教育使節団が、日本は学校教育一辺倒だ。民主主義を育てるには社会教育を発達させる必要があると考え、そのためには public library つまり公立図書館と、そこで働く図書館員が必要だということから作られた学科です。当初は、関西の同志社大学に設置する案もあったのが、福沢諭吉先生の考え方がいいということで慶應になったそうです」たくさんの児童書や絵本を翻訳し、『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『おふろだいすき』『じゃんけんのすきな女の子』など絵本や童話の作者でもあり、公益財団法人東京子ども図書館の名誉理事長として活動なさってきた松岡享子さんの、翻訳家としての軌跡をたどっていくこの連載。前回までは、戦争で疎開した小学校での農業体験や、戦後のどさくさでの自由な学校生活、転校した高校に反発して、英語と読書だけは一生懸命だった様子をお聞きしました。「大人の小説は読まなくなって、フィクションは児童文学ばかり読んでいました。当時は、児童文学なんて大学で教えるものと思われていない時代でしたが、ちょうど、<ドリトル先生>シリーズや『クマのプーさん』など、それまでの児童文学とは一味違う、新鮮な作品が岩波少年文庫に入りました。リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』や『名探偵カッレくん』、トラヴァースの『風にのったメアリー・ポピンズ』とか、すごく面白かったですね。『ナルニア国物語』は瀬田貞二訳で読みましたが、『ああ、この本を読むには自分は年をとりすぎたな』と感じました。児童文学以外では、評論をよく読みました。中村光夫の『二葉亭四迷伝』や、亀井勝一郎、堀田善衞をたくさん読んで、とても刺激的だったのを覚えています」著書は、絵本『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『とこちゃんはどこ』『おふろだいすき』、童話『なぞなぞのすきな女の子』、大人向けの『サンタクロースの部屋』『ことばの贈りもの』『えほんのせかいこどものせかい』など。今回の連載にあるように、慶應義塾大学の図書館学科で学んだ松岡さんが、アメリカに渡って児童図書館の理念と実際の運営を学び、子どもたちと交流し、日本に帰ってきてからの試行錯誤も紹介しながら、「東京子ども図書館」をつくるまでの思いが書かれています。1974年の設立時と、1984年には10年間の歩みをふりかえっています。「若い時ってホント高慢ですよね。でも、卒業してみるとね、他の大学に行かなくてよかったと思います。年々、愛校心が強まります」「ある日のこと、新聞に学生募集の小さな広告を見つけました。『慶應義塾大学文学部図書館学科』とありました。このとき、図書館──library ということばが、頭の中でカチッと音をたてました。何かにつけて優柔不断、さっさと動かないわたしが、どういうわけかそのときは、自分で学校に出向き、『実はわたしは児童文学に興味があるのですが、ここでそれが勉強できますか?』と、尋ねたのです」図書館の近くにある慶應外国語学校(夜学)の木造校舎が使われていて、松岡さんが進学した年はまだ3年生、4年生の2学年のみ、他大学からの編入生と、慶應の2年生から上がってきた人とほぼ半々だった。高校時代の乱読が、大学に入ってからは児童文学へと集中していった。© Copyright 光文社. org設立。15年に外務省退職。8年前に初めて浮世絵の復刻版に触れ、繊細な色使い、職人の精巧な技術に惚れ込んだ。2014年、江戸浮世絵木版画技術の保存と継承や、浮世絵を世界へ広めることを目的に浮世絵プロジェクトを開始。アメリカのロックバンドKISSとコラボレーションし、浮世絵で彼らを描く事業などを行ってきた。今年7月には、初めてフランスで同プロジェクトを展開した。 難物として知られる有名翻訳家の取材ということで、当日の朝から緊張していた筆者だが、実際にそれが始まると、自衛隊機の機関砲弾を全身にぶちこまれるような強烈な体験となった。読者のみなさんも覚悟して読み進んで欲しい。 連載「”不実な美女”たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(1) [2015年05月21日] 連載「”不実な美女”たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(7)(番外編) [2015年04月20日]