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気象庁ホームページについて; サイトマップ 題名は「照降町の梅」、この梅が樹木の梅なのか、新作にして初めての女性主人公の名前なのか 11月が楽しみ 890 無名草子さん 2019/07/14(日) 12:43:01.39
「天理教・信仰している方へ」は、陽気ぐらしに向かって成人の歩みを進めるようぼく信者向けの情報サイトです。教えや信仰実践のてがかり、天理教のニュース、お知らせ、行事案内、交通案内、動画、ラジオ、写真、snsなど。 本尊は、運慶作と伝える千手観音。当初は、伏見にあり、多くの書籍を刊行。その後、相国寺山内へ、更に一条寺小谷町に移された。この庭には、諸方に牛に見立てた大石が配され、「十牛之庭」がありま … 気象庁ホームページについて; サイトマップ Amazonで今井 絵美子の雁渡り 照降町自身番書役日誌 (角川文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。今井 絵美子作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また雁渡り 照降町自身番書役日誌 (角川文庫)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 気象庁:〒100-8122東京都千代田区大手町1-3-4() 代表電話:03-3212-8341法人番号8000012100004. 【和宮】 【和宮】圓光寺紅葉まばゆき秋の日や、寂光院こもる建礼門院の昔を偲ぶ雪景色、入口は、既に大勢の人で賑わい、早速中に入ると、宴席コーナーがあり、その前で、再び100名程宴席の順番を並んで待っていた。我々グループも15分程待つと、宴席に座ることができた。友人U氏と共に着席すると、かわいい舞妓さんが抹茶と団子皿にのせた菓子を代わるがわる運んできて、「抹茶をどうぞ!団子皿は、土産にお持ち帰りください。」と云って、小生の眼の前に差し出してくれた。小生、手前に引き寄せて、前の人の見よう見まね、お菓子と共に抹茶を美味しく頂いた。京都まで来て飲んだ抹茶である。何やら、美味しかった。団子皿には、「都をどり」と絵付けされており、、土産に持ち帰った。楠木正成は、建武の親政時の功から、天皇から菊紋を下賜されたが,畏れ多いとして、半分は水にながした菊水紋にしたと云う。楠木正成は、後醍醐天皇を奉じ倒幕計画に加わり、建武の新政に貢献した河内の武将と云うより土豪である。流鏑馬は、平安時代から武士のたしなみとして盛んに行なわれていた。このとき、正成は、赤坂城の他、金剛山一帯に要塞と千早城を築いていた。これにより幕府は、この小さい城に何と3万騎の追討軍を派遣し、同3年(1333年)2月、千早城の戦いとなった。幕府が大軍を差し向けた重大さが分かろうと云うもの。【文官行進列】 【延暦武官列】その後に、江戸時代の有名なご婦人列がつづく。和宮、吉野大夫、出雲阿国など美し処で、その写真が充分に撮れてないのは、勿体ない。中でも、和宮(孝明天皇の御妹君、徳川家茂に降家された女性)、吉野太夫は、色白で美しい。その後、しかめ面し、ふんぞり返る京都知事・市長・議会蓮・商工会議所・協賛会の名誉奉行を乗せた馬車列が通る。お茶に満足した小生とU氏は、隣の「都をどり」の会場へ入った。会場は、1階と2階に分かれ、総勢1,200名程度である。小生は2階の3列14番、友人U氏は隣の席に着席すると、間もなく幕が開いた。錦の御旗;官軍の旗印。赤字の錦に金色の日像、銀色の月像を刺しゅうした旗。歌舞練場は、第2回開催の花見小路から大正2年に現在の場所(東山区祇園町南側)に移転し、昭和25年~27年、および平成29年の修理以外は、毎年この地で上演されています。洛北の名所、真夏でもひんやりと涼しく、清流が流れる貴船川の舞台である。この貴船川では、平安時代の歌人・和泉式部は、夫の愛を取り戻すことを願って、貴船神社にお願いし、神に心の内を訴えた処、やがて、夫の愛を蘇らせたと云われている。時代祭は、あたかも幻かタイムスリップしたかのような時代絵巻を見せてくれた。これは、小生にとって、真に至福のひとときであった。また、この時代祭は京都市民が企画・参加する祭で、京都人の宝である。この伝統行事が何時までも続くことを祈りたい。時代祭は、京都御所を12時に発した2,000名の行列が、道中2kmを行進し、先頭は平安神宮に14時30分着、最後尾は2時間後の予定である。源義朝の側室。平治の乱後、子の助命の 美人29.春を告げる都をどり in春秋座ツアー(前編)H28.4.6小生等は、13時30分過ぎ指定席に到着し、着席した。観客席は、神宮通り大鳥居から応天門の間、約300mの両側に設営されており、U氏・小生等の席は、4A47番、48番の最前列・道路西側で、逆光から免れ、カメラ摂りに絶好の場所に陣取った。しかし、建武の新体制は、公家が中心の土地分配で、従来よりも重い年貢であったため、武士の不満は高まった。建武2年(1335年)、尊氏は、良しと思わない武士・御家人を集めて反乱を起こす。これに対し、正成、義貞らは討伐軍を組み、尊氏軍に勝利し、京都から追い出すことに成功する。敗走した尊氏は、九州に落ち延び、九州を制覇して、軍勢を立て直す。3万5千の軍で京をめざし、捲土重来する。その後に、桂小五郎、西郷吉之助、坂本竜馬、中岡慎太郎、高杉晋作の維新志士列がつづく。が、皆一人歩きで、貧相で目立たず、写真撮り忘れ。このとき、正成は、天皇の御前で「尊氏を一旦京都へ導き入れ、義貞と正成で挟み打ちにする」と提言するが、天皇の側近に「戦う前に、都を明け渡すのは、帝位そのものを軽んずる」と反論される。その結果、正成はやむなく700騎を従え、義貞の軍勢と合流し、湊川で激戦の末、弟正季と共に自刃した。(43歳)これから時代祭も秀吉の牛車を伴う豪華な出で立ちから、鎌倉時代の流鏑馬など質実剛健な出で立ちへ変わってくる。また、平安時代に入ると、美しい女性の着飾った姿が見られ、華やかな行列が続き、多いに楽しむことができた。【時代祭の前踊り】 【馬上の謎の美女性】承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇は朝廷権力の回復をはかるため、北条義時追討の挙兵した時の一場面を示す。狩り装束の射手武士を中心に童・弓袋差の郎党を従える。小生、若い頃、吉川英二著の「私本太平記」を読んだ。その時は、飯を食べるのを忘れ、小説に熱中し、自分が正成や尊氏になったような記憶がある。右手には地方連中(鉦、笛、鼓)、左手には囃子連中(長唄、義太夫)が奏でる演奏に合わせて、花道から、「ヨーイナアーサー」の掛け声と共に、芸舞妓たちが現れた。第一景「置歌」が始まった。高校の友人U氏の誘いを受け、読売旅行が企画する「京に春を告げる都をどり」のツアーに参加した。東北地方の南部馬追唄などの民謡と踊りかな?と、軽く考えて参加したものだった。京都に着いて、パンフレットを手にして分かったことだが、小生のイメージとは全く狂い、想像もしてない艶やかな舞妓の踊りと分かり、胸も高まった。昨夏にも、昨年秋の時代祭に参加しようと計画したが、丁度、祭当日に台風襲来に当たり、残念ながら中止されたものだった。本日は、絶好の祭晴れ、高校時代の友人U氏と共にするリベンジツアー。なお、京都三大祭のうち、祇園祭と葵祭は、既に済ませている。やがて、舞台の中央に芸妓・舞妓が総揃いし、肩口から咲き誇る枝垂れ桜を背景にして、長唄と共に艶やかに舞う姿は、華麗で圧巻であり、美しく映えて見えた。【羽柴秀吉】 【柴田勝家】【常盤御膳】 【静御前】 源義経の愛妾、悲劇の待つこと20分、右側の大鳥居から笛・太鼓の音色が聞こえ、行列が現れた。京都市民が扮する行列が順次繰り出し、都大路に明治時代から平安時代へ遡る時代風俗絵巻が繰り広げられた。都をどりは、江戸時代から公家の御殿で演じられてきた京舞を手本にして、銀ふすまを舞台にしている。芸舞妓さんは揃いの藍地の衣装で、花道から次々と現れ、緩やかに舞いが始まる。本列は、先頭の狩衣姿の立入宗継、羽柴秀吉、丹羽長秀、大幟、織田信長,滝川一益、柴田勝家へとつづく。先頭に笛・太鼓の音色に合わせ、女性連が踊り姿で現れた。続いて、女官に扮する平安風美人がPR、Vサインでニッコリ。「ピーヒャラ、ラッタッタ!ピーヒャラ、ラッタッタ!」と軽快なリズムに合わせて入って来たのは、明治維新を成した維新勤王隊の連中。先頭に、御使者、笛・小太鼓・大太鼓と指揮を鼓舞する軍楽隊がつづき、錦の御旗がひらめく。次に、隊長、参謀、司令長、指令士、伍長、兵士へとつづき隊列を成す。正成は、河内で悪党と呼ばれる程、戦い上手な土豪の独りであった。家来が多くかかえる格式の高い守護大名ではない。後醍醐天皇に参内して、頼りにされたことから、命を懸けて天皇を御守りしたと思われる。この栄誉をバネにして、仲間を集め、今までに培った知略を武器にして、幕府を手玉にとる程の大きな戦いを行うことが出来たのだろう。千早城の戦いを契機にして、正成は後醍醐天皇ひとすじに思い、湊川で自刃する。更には、子息までもが、後醍醐天皇に恭順を示し戦っている。鎌倉幕府は、北条時宗の時代、二度のモンゴル軍の襲来により、幕府は力を亡くしていた。その後、桓武天皇の治世時代における延暦武官・文官行進列が通り、最後に祭事に携わる神饌講社列、神に仕える神幸列などの行列が通って終わった。舞台は、王朝の恋に思いを馳せながら、沢の蛍が舞う中、舞妓・芸妓がしっとりと美しく舞いを繰り広げていく。元弘3年(1333)6月、後醍醐天皇が、配流先の隠岐からの還幸に当たって、楠木正成が一族郎党を率いて、兵庫に出迎え先駆して上洛した。【山名宗全】 【細川勝元】応仁の乱後、京都は寂れていた。天下統一をめざす織田信長は、正親町天皇のお召しに応じて、兵を率いて上洛した。時は、元弘元年(1331年)。後醍醐天皇は、天皇中心の公家政権の復活をめざし、再度の倒幕計画を企てた。しかし、側近の密告で計画が発覚し、急きょ京都を脱出、笠置山に籠り挙兵したが、武士や大名は現れなかった。そこで不安になり、眠っていると、南向きの庭に大きな木がある不思議な夢を見た。夢にみた「木」と「南」に着目すると、「楠」という字になる。近辺の衆徒に尋ねると、楠木正成と名乗る者がいると云うので、早速、正成を呼び寄せ、笠置山にて参内させた。山川さらさら岩枕、瀬の音も涼しさ添ふる川床ぞ、一樹の陰に宿りあひ、【神饌講社列の輿】 【神饌講社列の太鼓】風流踊りは、室町時代後半に経済力を蓄積した京の町衆によって、行われたもの。【御使番】 下【隊長】 【軍楽隊】 下【参謀と司令長】権力を手中にした女性、悲劇の女性、知性あふれた賢女が次々と現れる。 【淀君】 唐織、刺繍、染、絞りなど最高の技術今回、NHKテレビのBSプレミアム、PM9時からザ・プロファイラーで「戦術の天才・楠木正成」が放映された。若い頃を思い出し、この1時間の放映をワクワクしながら楽しむことが出来た。同時に、この画像を最新カメラで撮影し、これを元にブログを製作した。この結果、建武3年(1336年)、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立して、北朝政権をつくり、室町幕府を開く。一方、後醍醐天皇は、奈良の吉野に逃れ、南朝政権を開き、以後南北朝時代がつづく。今回の華やかな都をどりは、余韻を残しながら、宴席コーナー30分、舞台の鑑賞60分が、瞬く間に過ぎた。思い出に売店でパンフレットを購入し、また、舞妓さんから土産に頂いた菓子皿を携えて、帰りのバスに急いだ。このとき、正成は、「智謀を用いれば、幕府軍は恐れるに足らず」。更に「正成一人いれば、天皇の聖運が必ず開けましょう」と答え、後醍醐天皇は頼りにされたと云う。洛北の緑豊かに春秋座、舞台移して晴れやかに、蛍追いつつ貴船川、5月上旬、幕府方の足利尊氏が反乱し、六波羅を攻め落としたことから、千早城の包囲軍は解け、楠木軍は勝利する。更には、5月下旬、今度は新田義貞が鎌倉を滅ぼし、幕府は滅亡することになる。ここに後醍醐天皇の建武の新政が始まった。建武元年(1333年)戦国の世を制し、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。秀吉は、関白太政大臣に昇りつめ、度々参内に上洛した。乗物は、唐庇車と呼ばれる牛車で、そのときの行列である。隊列は、十社旗、前田玄以、石田三成、浅野長政の大名姿、秀吉の牛車へとつづく。による、豪華な衣装を纏う、美しきかな! 【巴御前】木曾義仲の愛妾、勇ましき美人宇多津駅を出発したバスは、高松駅を7時30分にめぐり、小生と友人U氏を含め、40名程を乗せて、昼頃ホテル日航プリンス京都へ到着。ホテルでの昼食で、デザート付バイキングコースランチを摂り、充分に栄養補給を整え、平安神宮前の指定観客席へ向かった。歌舞練場の庭園は、織田信長の弟・茶人有楽斎の邸跡と伝え、茶室、池があり、枝垂れ桜が咲き誇ります。舞台は、美しい庭園と歌舞練場に満開の桜を取り合わせて、華やかなフィナーレの舞が広がります。【紫式部】知性にあふれた美人 【清少納言】、枕草子の著者、文学美人【調度品】 【駕籠】正成は、すぐさま赤坂城で挙兵し、幕府軍を相手に奇襲のゲリラ作戦、大木・石・熱湯など落とし対抗し善戦した。が、兵糧もなく急きょ仕立ての城では、長期戦には不利なことから、正成は、城に火をかけ撤退した。この時、後醍醐天皇は、やむなく幕府軍に捕獲され、隠岐の島に流されることになる。これを元弘の変(1331年)と云う。正成は、以後、天皇の反逆者として扱われるが、江戸時代、明治時代になり、尊王思想の考えが及ぶようになり、忠臣の人として見直される。今の世にこれ程の忠節を尽くし、人を動かし、知略をもった人物がいるのだろうか?
気象庁ホームページについて; サイトマップ 題名は「照降町の梅」、この梅が樹木の梅なのか、新作にして初めての女性主人公の名前なのか 11月が楽しみ 890 無名草子さん 2019/07/14(日) 12:43:01.39
「天理教・信仰している方へ」は、陽気ぐらしに向かって成人の歩みを進めるようぼく信者向けの情報サイトです。教えや信仰実践のてがかり、天理教のニュース、お知らせ、行事案内、交通案内、動画、ラジオ、写真、snsなど。 本尊は、運慶作と伝える千手観音。当初は、伏見にあり、多くの書籍を刊行。その後、相国寺山内へ、更に一条寺小谷町に移された。この庭には、諸方に牛に見立てた大石が配され、「十牛之庭」がありま … 気象庁ホームページについて; サイトマップ Amazonで今井 絵美子の雁渡り 照降町自身番書役日誌 (角川文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。今井 絵美子作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また雁渡り 照降町自身番書役日誌 (角川文庫)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 気象庁:〒100-8122東京都千代田区大手町1-3-4() 代表電話:03-3212-8341法人番号8000012100004. 【和宮】 【和宮】圓光寺紅葉まばゆき秋の日や、寂光院こもる建礼門院の昔を偲ぶ雪景色、入口は、既に大勢の人で賑わい、早速中に入ると、宴席コーナーがあり、その前で、再び100名程宴席の順番を並んで待っていた。我々グループも15分程待つと、宴席に座ることができた。友人U氏と共に着席すると、かわいい舞妓さんが抹茶と団子皿にのせた菓子を代わるがわる運んできて、「抹茶をどうぞ!団子皿は、土産にお持ち帰りください。」と云って、小生の眼の前に差し出してくれた。小生、手前に引き寄せて、前の人の見よう見まね、お菓子と共に抹茶を美味しく頂いた。京都まで来て飲んだ抹茶である。何やら、美味しかった。団子皿には、「都をどり」と絵付けされており、、土産に持ち帰った。楠木正成は、建武の親政時の功から、天皇から菊紋を下賜されたが,畏れ多いとして、半分は水にながした菊水紋にしたと云う。楠木正成は、後醍醐天皇を奉じ倒幕計画に加わり、建武の新政に貢献した河内の武将と云うより土豪である。流鏑馬は、平安時代から武士のたしなみとして盛んに行なわれていた。このとき、正成は、赤坂城の他、金剛山一帯に要塞と千早城を築いていた。これにより幕府は、この小さい城に何と3万騎の追討軍を派遣し、同3年(1333年)2月、千早城の戦いとなった。幕府が大軍を差し向けた重大さが分かろうと云うもの。【文官行進列】 【延暦武官列】その後に、江戸時代の有名なご婦人列がつづく。和宮、吉野大夫、出雲阿国など美し処で、その写真が充分に撮れてないのは、勿体ない。中でも、和宮(孝明天皇の御妹君、徳川家茂に降家された女性)、吉野太夫は、色白で美しい。その後、しかめ面し、ふんぞり返る京都知事・市長・議会蓮・商工会議所・協賛会の名誉奉行を乗せた馬車列が通る。お茶に満足した小生とU氏は、隣の「都をどり」の会場へ入った。会場は、1階と2階に分かれ、総勢1,200名程度である。小生は2階の3列14番、友人U氏は隣の席に着席すると、間もなく幕が開いた。錦の御旗;官軍の旗印。赤字の錦に金色の日像、銀色の月像を刺しゅうした旗。歌舞練場は、第2回開催の花見小路から大正2年に現在の場所(東山区祇園町南側)に移転し、昭和25年~27年、および平成29年の修理以外は、毎年この地で上演されています。洛北の名所、真夏でもひんやりと涼しく、清流が流れる貴船川の舞台である。この貴船川では、平安時代の歌人・和泉式部は、夫の愛を取り戻すことを願って、貴船神社にお願いし、神に心の内を訴えた処、やがて、夫の愛を蘇らせたと云われている。時代祭は、あたかも幻かタイムスリップしたかのような時代絵巻を見せてくれた。これは、小生にとって、真に至福のひとときであった。また、この時代祭は京都市民が企画・参加する祭で、京都人の宝である。この伝統行事が何時までも続くことを祈りたい。時代祭は、京都御所を12時に発した2,000名の行列が、道中2kmを行進し、先頭は平安神宮に14時30分着、最後尾は2時間後の予定である。源義朝の側室。平治の乱後、子の助命の 美人29.春を告げる都をどり in春秋座ツアー(前編)H28.4.6小生等は、13時30分過ぎ指定席に到着し、着席した。観客席は、神宮通り大鳥居から応天門の間、約300mの両側に設営されており、U氏・小生等の席は、4A47番、48番の最前列・道路西側で、逆光から免れ、カメラ摂りに絶好の場所に陣取った。しかし、建武の新体制は、公家が中心の土地分配で、従来よりも重い年貢であったため、武士の不満は高まった。建武2年(1335年)、尊氏は、良しと思わない武士・御家人を集めて反乱を起こす。これに対し、正成、義貞らは討伐軍を組み、尊氏軍に勝利し、京都から追い出すことに成功する。敗走した尊氏は、九州に落ち延び、九州を制覇して、軍勢を立て直す。3万5千の軍で京をめざし、捲土重来する。その後に、桂小五郎、西郷吉之助、坂本竜馬、中岡慎太郎、高杉晋作の維新志士列がつづく。が、皆一人歩きで、貧相で目立たず、写真撮り忘れ。このとき、正成は、天皇の御前で「尊氏を一旦京都へ導き入れ、義貞と正成で挟み打ちにする」と提言するが、天皇の側近に「戦う前に、都を明け渡すのは、帝位そのものを軽んずる」と反論される。その結果、正成はやむなく700騎を従え、義貞の軍勢と合流し、湊川で激戦の末、弟正季と共に自刃した。(43歳)これから時代祭も秀吉の牛車を伴う豪華な出で立ちから、鎌倉時代の流鏑馬など質実剛健な出で立ちへ変わってくる。また、平安時代に入ると、美しい女性の着飾った姿が見られ、華やかな行列が続き、多いに楽しむことができた。【時代祭の前踊り】 【馬上の謎の美女性】承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇は朝廷権力の回復をはかるため、北条義時追討の挙兵した時の一場面を示す。狩り装束の射手武士を中心に童・弓袋差の郎党を従える。小生、若い頃、吉川英二著の「私本太平記」を読んだ。その時は、飯を食べるのを忘れ、小説に熱中し、自分が正成や尊氏になったような記憶がある。右手には地方連中(鉦、笛、鼓)、左手には囃子連中(長唄、義太夫)が奏でる演奏に合わせて、花道から、「ヨーイナアーサー」の掛け声と共に、芸舞妓たちが現れた。第一景「置歌」が始まった。高校の友人U氏の誘いを受け、読売旅行が企画する「京に春を告げる都をどり」のツアーに参加した。東北地方の南部馬追唄などの民謡と踊りかな?と、軽く考えて参加したものだった。京都に着いて、パンフレットを手にして分かったことだが、小生のイメージとは全く狂い、想像もしてない艶やかな舞妓の踊りと分かり、胸も高まった。昨夏にも、昨年秋の時代祭に参加しようと計画したが、丁度、祭当日に台風襲来に当たり、残念ながら中止されたものだった。本日は、絶好の祭晴れ、高校時代の友人U氏と共にするリベンジツアー。なお、京都三大祭のうち、祇園祭と葵祭は、既に済ませている。やがて、舞台の中央に芸妓・舞妓が総揃いし、肩口から咲き誇る枝垂れ桜を背景にして、長唄と共に艶やかに舞う姿は、華麗で圧巻であり、美しく映えて見えた。【羽柴秀吉】 【柴田勝家】【常盤御膳】 【静御前】 源義経の愛妾、悲劇の待つこと20分、右側の大鳥居から笛・太鼓の音色が聞こえ、行列が現れた。京都市民が扮する行列が順次繰り出し、都大路に明治時代から平安時代へ遡る時代風俗絵巻が繰り広げられた。都をどりは、江戸時代から公家の御殿で演じられてきた京舞を手本にして、銀ふすまを舞台にしている。芸舞妓さんは揃いの藍地の衣装で、花道から次々と現れ、緩やかに舞いが始まる。本列は、先頭の狩衣姿の立入宗継、羽柴秀吉、丹羽長秀、大幟、織田信長,滝川一益、柴田勝家へとつづく。先頭に笛・太鼓の音色に合わせ、女性連が踊り姿で現れた。続いて、女官に扮する平安風美人がPR、Vサインでニッコリ。「ピーヒャラ、ラッタッタ!ピーヒャラ、ラッタッタ!」と軽快なリズムに合わせて入って来たのは、明治維新を成した維新勤王隊の連中。先頭に、御使者、笛・小太鼓・大太鼓と指揮を鼓舞する軍楽隊がつづき、錦の御旗がひらめく。次に、隊長、参謀、司令長、指令士、伍長、兵士へとつづき隊列を成す。正成は、河内で悪党と呼ばれる程、戦い上手な土豪の独りであった。家来が多くかかえる格式の高い守護大名ではない。後醍醐天皇に参内して、頼りにされたことから、命を懸けて天皇を御守りしたと思われる。この栄誉をバネにして、仲間を集め、今までに培った知略を武器にして、幕府を手玉にとる程の大きな戦いを行うことが出来たのだろう。千早城の戦いを契機にして、正成は後醍醐天皇ひとすじに思い、湊川で自刃する。更には、子息までもが、後醍醐天皇に恭順を示し戦っている。鎌倉幕府は、北条時宗の時代、二度のモンゴル軍の襲来により、幕府は力を亡くしていた。その後、桓武天皇の治世時代における延暦武官・文官行進列が通り、最後に祭事に携わる神饌講社列、神に仕える神幸列などの行列が通って終わった。舞台は、王朝の恋に思いを馳せながら、沢の蛍が舞う中、舞妓・芸妓がしっとりと美しく舞いを繰り広げていく。元弘3年(1333)6月、後醍醐天皇が、配流先の隠岐からの還幸に当たって、楠木正成が一族郎党を率いて、兵庫に出迎え先駆して上洛した。【山名宗全】 【細川勝元】応仁の乱後、京都は寂れていた。天下統一をめざす織田信長は、正親町天皇のお召しに応じて、兵を率いて上洛した。時は、元弘元年(1331年)。後醍醐天皇は、天皇中心の公家政権の復活をめざし、再度の倒幕計画を企てた。しかし、側近の密告で計画が発覚し、急きょ京都を脱出、笠置山に籠り挙兵したが、武士や大名は現れなかった。そこで不安になり、眠っていると、南向きの庭に大きな木がある不思議な夢を見た。夢にみた「木」と「南」に着目すると、「楠」という字になる。近辺の衆徒に尋ねると、楠木正成と名乗る者がいると云うので、早速、正成を呼び寄せ、笠置山にて参内させた。山川さらさら岩枕、瀬の音も涼しさ添ふる川床ぞ、一樹の陰に宿りあひ、【神饌講社列の輿】 【神饌講社列の太鼓】風流踊りは、室町時代後半に経済力を蓄積した京の町衆によって、行われたもの。【御使番】 下【隊長】 【軍楽隊】 下【参謀と司令長】権力を手中にした女性、悲劇の女性、知性あふれた賢女が次々と現れる。 【淀君】 唐織、刺繍、染、絞りなど最高の技術今回、NHKテレビのBSプレミアム、PM9時からザ・プロファイラーで「戦術の天才・楠木正成」が放映された。若い頃を思い出し、この1時間の放映をワクワクしながら楽しむことが出来た。同時に、この画像を最新カメラで撮影し、これを元にブログを製作した。この結果、建武3年(1336年)、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立して、北朝政権をつくり、室町幕府を開く。一方、後醍醐天皇は、奈良の吉野に逃れ、南朝政権を開き、以後南北朝時代がつづく。今回の華やかな都をどりは、余韻を残しながら、宴席コーナー30分、舞台の鑑賞60分が、瞬く間に過ぎた。思い出に売店でパンフレットを購入し、また、舞妓さんから土産に頂いた菓子皿を携えて、帰りのバスに急いだ。このとき、正成は、「智謀を用いれば、幕府軍は恐れるに足らず」。更に「正成一人いれば、天皇の聖運が必ず開けましょう」と答え、後醍醐天皇は頼りにされたと云う。洛北の緑豊かに春秋座、舞台移して晴れやかに、蛍追いつつ貴船川、5月上旬、幕府方の足利尊氏が反乱し、六波羅を攻め落としたことから、千早城の包囲軍は解け、楠木軍は勝利する。更には、5月下旬、今度は新田義貞が鎌倉を滅ぼし、幕府は滅亡することになる。ここに後醍醐天皇の建武の新政が始まった。建武元年(1333年)戦国の世を制し、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。秀吉は、関白太政大臣に昇りつめ、度々参内に上洛した。乗物は、唐庇車と呼ばれる牛車で、そのときの行列である。隊列は、十社旗、前田玄以、石田三成、浅野長政の大名姿、秀吉の牛車へとつづく。による、豪華な衣装を纏う、美しきかな! 【巴御前】木曾義仲の愛妾、勇ましき美人宇多津駅を出発したバスは、高松駅を7時30分にめぐり、小生と友人U氏を含め、40名程を乗せて、昼頃ホテル日航プリンス京都へ到着。ホテルでの昼食で、デザート付バイキングコースランチを摂り、充分に栄養補給を整え、平安神宮前の指定観客席へ向かった。歌舞練場の庭園は、織田信長の弟・茶人有楽斎の邸跡と伝え、茶室、池があり、枝垂れ桜が咲き誇ります。舞台は、美しい庭園と歌舞練場に満開の桜を取り合わせて、華やかなフィナーレの舞が広がります。【紫式部】知性にあふれた美人 【清少納言】、枕草子の著者、文学美人【調度品】 【駕籠】正成は、すぐさま赤坂城で挙兵し、幕府軍を相手に奇襲のゲリラ作戦、大木・石・熱湯など落とし対抗し善戦した。が、兵糧もなく急きょ仕立ての城では、長期戦には不利なことから、正成は、城に火をかけ撤退した。この時、後醍醐天皇は、やむなく幕府軍に捕獲され、隠岐の島に流されることになる。これを元弘の変(1331年)と云う。正成は、以後、天皇の反逆者として扱われるが、江戸時代、明治時代になり、尊王思想の考えが及ぶようになり、忠臣の人として見直される。今の世にこれ程の忠節を尽くし、人を動かし、知略をもった人物がいるのだろうか?