2009(h21)5番目の妻で藤田と25歳差であった君代(マリー=アンジュ)が亡くなる。君代の遺言により藤田と共にこの礼拝堂に埋葬された。マドレーヌは日本、藤田嗣治はフランス、共に故国を離れて眠る。
藤田 嗣治の5番目の嫁君代は25歳年下の藤田安住の女だった。 しかし120年前の明治の時代に裕福だったにしろ芸術に 真剣に取り組んで、そして何度裏切られても、裏切っても 恋をして、遠い他国で生きて名前を残した人がいたんだな~ と本気で尊敬出来る。 藤田が君代夫人と郊外に移ったのは、高齢に達した藤田が、残りの人生は人に煩わされることなく制作に打ち込みたいと思ったからだと言われている。確かにこの場所は公共交通手段を使って訪れるには不 …
陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画をてがけました。とても美人だったそうですが、酒癖が悪く藤田公認で不倫していたそうです。7歳で父の仕事の関係で熊本に移住しますが、11歳ころ東京にもどり、小学校、中学校を卒業します。学校を卒業するときの作品では、当時よくないとされていた黒をたくさん使った絵をかいたりして挑発的でした。フランスのパリで活動し、彼のオリジナルの技法は世界で絶賛されました。日本では黒田清輝の作風しか受け入れてくれなかったのが、フランスでは自由を感じました。73歳で、カトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなりました。そのころには、アメリカのほうでも名前が届いていてとても有名人でした。その後は、日本にもどりますが、戦争の影響で中国にいったり日本にもどったりしました。れきし上の人物.comサイト管理人。元々はかなりの歴史オンチ。今では歴史にハマってしまい、城巡りとかしちゃってる。よかったらフォローしてってください。展覧会に出展したりもしましたが、やはり当時の日本はフランス留学帰りの黒田清輝たちの作風がもてはやされていたせいで、全部落選しました。そこで藤田嗣治は、ただちにこれまでの作風をすべて捨てることを決断しました。終戦後、陸軍美術協会理事長だったせいで、GHQから聴取をうけたりし、そんな日本にうんざりしました。「英雄色を好む」なんていいますが、藤田嗣治もそういうことだったのでしょうか。父は医者の藤田嗣章(つぐあきら)です。父は森鴎外の後任で、最高位の陸軍軍医総監にまで昇進した偉人です。そのころには、オリジナルの技法も習得し、彼の絵画が認められるようになります。
こんばんは!ナビゲーターのビー玉です。本日は日本人としてパリで大成功を果たした藤田嗣治とその妻たちにスポットを当てた回顧展です。藤田嗣治はモデルに性的関係を強要するということはありませんでしたが、5度の結婚(事実婚含む)をしています。 !ただね・・これまでも夫婦ともに公認の愛人がいたくらい性に奔放な夫婦だったんですよ!この独特の白の下地は長年謎とされていましたが、最近の研究では下地に「タルク」を混ぜて使っていたことが分かりました。藤田嗣治は1886年11月22日に東京牛込陸軍軍医の4男として生まれ、芸術にも理解がある裕福な家庭で金銭的には何不自由なく育ちました。全く売れなかった藤田の絵をパリ中の画商に売り込んで回りました。この頃の藤田の絵は売れても7フランほど・・・パリではフーフー(お調子者)と呼ばれ、なのにお酒は一滴も飲めない。ちなみにタルク(滑石を粉にしたもの)っていうのは、ベビーパウダーの主原料です。藤田が使っていたのは和光堂の『シッカロール』なんだとか!この「乳白色」を生み出したことで藤田は一躍人気画家としてパリで認められます。美貌と才気で画家仲間の間でマドンナのような存在だった女性です。2人は新宿百人町で暮らし始めますが、わずか半年ほどで藤田は新妻を置いて単身パリへ留学。南米の風土や文化に影響を受けて、藤田の絵はすこしずつ色彩を増していきます。ユキが原因で別れたのに、なぜ作品を渡したんだろうって不思議ですが、藤田にももう次の相手がいたので、揉めずに別れたかったのかもしれません。渡仏する前の藤田の絵はわすか10枚ほどしか現存しませんが、そのうちの1枚は最初の妻だった登美子の実家から2017年に発見されました彼女との結婚生活はたった2年と短かったんですが、この頃に描かれた裸婦が好きなんですよね(((uдu*)ゥンゥンパリで生涯の親友となるアメデオ・モディリアーニと出会い、彼を通じてパスキン、パブロ・ピカソなど芸術の最先端をいく尖った芸術家たちと交流を深めていきます。彼らとの出会いに刺激をうけたのか、17年間1度も帰国することなく登美子とは結婚後1年ほどで離婚しました。絵の中に猫も頻繁に登場するようになるのも猫好きとして嬉しい(*´﹀`*)センスは感じますし好きですけど、右上にもう1人いそうだし・・部屋の壁に飾りたいかっていうと・・・ねぇ(^▽^;)藤田はそんな彼女を「バラ色の雪」に称えたことから「ユキ」と呼ぶようになりました。留学時はすでに結婚していましたが、藤田は妻を日本に残して単身パリへ旅立ちます。まるで幻想のように、触れると消えてしまいそうだった裸婦に血が通いだします・・・滑らかな肌には体重も肉感も感じられ綺麗です。パリに出てきたばかりの不安感がこのような闇系少女の絵を生み出したのではないかと思います。当時は、このような闇系少女の絵を描いていました。うん怖すぎるwパリに受け入れらたことで、パリで暮らす女性を生身の人として接する自信が出てきたのかもしれません。油断するとR20の記事を書こうとするエセ学芸員を静止するのが最大の役目。ただ・・唯一無二の画風であっても、画商の目に留まらなければ絵は売れません。異国人の藤田が生前にパリで人気画家になれたのは、営業を一手に引き受けたフェルナンドの功績に他なりません。なのに、なぜ小柳正だけ許せなかったのか?「同じ日本人だったから?」とか「相手がイケメンだったから?」なんて問題視されたりもしますが・・・藤田にとって幸運の女神だったフェルナンドですが、夫のアトリエに出入りしていた日本人画家の小柳正と不倫。アルコール依存や薬物依存が原因かと言われていますが、真相はわかりません。フェルナンドは娼婦として生計をたてつつ、藤田の親友であったモディリアーニ のモデルをしていた時に藤田と出逢い、13日後に電撃結婚∑( ̄□ ̄;)ハヤッ藤田嗣治はモデルに性的関係を強要するということはありませんでしたが、5度の結婚(事実婚含む)をしています。藤田嗣治だぁ!藤田嗣治展は2回行きました(*´ー`*)かつて仕事で扱っていた中学校の教科書に自画像が載っていて、「なんだ?この前髪のおっさんは」って思ったなぁ(笑)その後、日本人でパリで成功した藤田だと思い出し、改めて絵を見たらその独特の美しさにコロッとなりました。本物は更に美しかったですよね。それにしても5人も妻がいたのね。最後の君代さんしか知らなかった。彼女も異国で苦労したみたいですね。女は男の才能に弱い(^0^;)楽しかった!ありがとうございます(´▽`)ノ藤田はキュビズムから写実までを自在に操れる抜群の画力とセンスを持っていました。藤田が2番目の妻フェルナンドと別れた翌年の1929年に結婚したのがリシュー・バドウ、通称「ユキ」1936年に藤田と結婚し、30年以上を添い遂げた最後の妻君代です。君代さん…ちょっと厳しそうに見える…だからこそ、母像と被ったのかな?いや・・・私の経験上、お酒の飲めないお調子者は二面性を持っている人が多く、彼女にだけ見せる意外な姿という萌え要素強め!本日は日本人としてパリで大成功を果たした藤田嗣治とその妻たちにスポットを当てた回顧展です。まるで陶器のようだと称された彼の裸婦は「乳白色の肌」としてヨーロッパで大絶賛されました。