与謝野晶子の『みだれ髪』は、刊行と同時に大きな反響を巻き起こした与謝野晶子の第一歌集です。『みだれ髪』は当時妻のいた与謝野鉄幹との恋愛を詠ったものです。鉄幹との恋愛を背景にした『みだれ髪』の代表的な作品に意味と現代語訳を当ててご紹介します。
『みだれ髪』(みだれがみ)は、日本の歌人・与謝野晶子作の処女歌集である。1901年(明治34年)8月15日、東京新詩社と伊藤文友館の共版として発表。 表紙装丁デザインは藤島武二。 女性の恋愛感情を素直に詠んだ斬新な作風は当時賛否両論を巻き起こした。 百年前の恋の陶酔が甦る。二人の恋の道筋をたどるべく、恋愛の短歌を時間順に一首ずつ、現代語訳を当ててみます。与謝野晶子「みだれ髪」は、刊行と同時に大きな反響を巻き起こしました。当時の女性は長い髪を束ねて、高く結い上げるというヘアースタイルをしていました。というのは、当時の新詩社の歌は、独特な新しいスタイルを持ち、その頃の晶子の短歌も、新詩社の同人同士でしかわからないような、晦渋な比ゆ的、隠語的表現の空想家が多く、自己陶酔の大げさな身振りに満ちていました。与謝野晶子の当時センセーショナルな内容「みだれ髪」、元々が空想的な傾向の強い明星派ですので、実体験そのままかどうかはともかくとして、事実がベースになっていることは間違いないでしょう。それにしても、結婚しているわけではない、妻のある男性に対して、何とも大胆な歌に思えます。乱れた髪を島田に結いなおして、朝にそれまで寝ていてくださいね、と言った相手の君を揺り起こす初句切れといい、二句の強意、「ちからある」の意志の強さを同時に示す、乳の形容。その歌を見る相手が、同時に恋愛の相手であることから、おのずから歌も良きものとしようという鍛錬がなされ、歌を読むことでまた恋慕の意思も確固たるものともなったと思われます。これは、晶子が手紙で鉄幹に書き送った歌で、実際はもちろん忘れてほしいどころではなかったでしょう。心が狂った娘となった私に、激情の炎の羽根にとっては軽くたやすい130里の急ぎの旅なのです読み:はるみじかし なんにふめつのいのちとぞ ちからあるちを てにさぐらせぬ相手の与謝野鉄幹に「家庭や妻がある」などという矮小な見識を越えて、命の短さを説く晶子。おそらく、当人としては必至な思いがあったのでしょう。それが、与謝野晶子の才能を開花させたのです。読み:やみませる うなじにほそき かいなまきて ねつにかわける おくちをすわん風邪を引いたという鉄幹に送ったもので、お見舞いの歌なのでしょうか。当時の歌壇には、自然主義、写実主義の派が明星派との対極にあり対立をしていたわけですが、派の違いはあれ、与謝野晶子の才能は疑うべくもないでしょう。『みだれ髪」が出たのは、作者名は与謝野姓になる前で、まだ「鳳(ほう)晶子」となっていました。与謝野晶子は長い髪が自慢であり、この歌集のタイトルも「みだれ髪」なので、髪をモチーフにした歌が多く見られます。読み:きみさらば ふざんのはるの ひとよづま またのよまでは わすれいたまえ当初は、鉄幹には妻が居ました。とすると「みだれ髪」は、「私たちの恋愛は成就されましたよ」という宣言でもあるわけです。しかし、考えてみると、妻であればそばにいられるのに、晶子はそのような時にも鉄幹と共にいられない。看病をしてあげたいという、そのような意図もあったのではないでしょうか。その視点から与謝野晶子の「みだれ髪」で、鉄幹と結ばれるまでの愛の短歌を時間順に、意味と現代語訳を当ててご紹介します。髪のこととは言え、自分に属するものを美しいとはなかなか言えないものですが、晶子は臆するところがありません。与謝野晶子は大阪に住んでいたわけですが、鉄幹に会いたさに東京に飛ぶ、その時の様子を詠ったものです。「さぐらせぬ」の能動性が、晶子の主導する姿勢を表しています。この時代の女性には画期的なことだったでしょう。巫山とは、楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事から、男女が夢の中で結ばれることを指します。興味深いことに、この「みだれ髪」は恋愛の成就のメタファーでもあって、それだから題名に取られたということもあるのかもしれません。朝になると、寝ている間に髪型が崩れてしまうのは誰も同じなのですが、それを、恋人と過ごした夜が明けたあとの「みだれ髪」と焦点化したものが、この場合のみだれ髪の意味です。単なる崩れではなくて、そこにもっと官能的で叙情的な意味を込めた言葉が、この「みだれ髪」なのです。命がなくなってしまってもいいと思った恋だが、そのうつくしい命を惜しいと神が言ったので、願いが叶っても今があるそれを指し示す具体的な事物の一つが「みだれ髪」というアイテムであり、それが歌集のタイトルなのです。これほどのたくさんの歌が短期に生まれたのは、やはり恋愛が、それも道ならぬ恋を何とか通そうと、鉄幹に向けて書き送ったことが背景にあるでしょう。それは、内容が恋愛を主題とした短歌が多く、当時としてはたいへんに大胆な、センセーショナルな内容であったからです。しかし、与謝野鉄幹との恋愛があったから、この歌集の作品は詠まれたのです。よって、『みだれ髪」は夫となる与謝野鉄幹との愛の記録でもあります。恋人にあわただしく会いに行ったそのあとに「うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今」と続くので、晶子の「願い」は上京の後において遂げられたことが明らかです。けして、最初から高い評価をストレートに得たというわけではなかったのです。与謝野晶子の『みだれ髪』は、刊行と同時に大きな反響を巻き起こした与謝野晶子の第一歌集です。読み:みだれがみを きょうのしまだに かえしあさ ふしていませの きみゆりおこす明治時代のことで、奔放大胆な官能的な表現と、解放された自我の感情過多の表白は世を驚かせ、ほとんどスキャンダルめいた印象を与えたので、賛否両論の渦に巻き込まれたといいます。歌集『みだれ髪』を読んでいくと、「狂ひの子われに焔ほのほの翅はねかろき百三十里あわただしの旅」といううたがありますが、これは晶子が鉄幹に会いに上京をしたことを示す歌があります。その難解さが、当時この歌集の斬新な魅力でもあったのですが、のちに晶子は、『みだれ髪」の歌の改作を行いましたが、同時にこの歌集の魅力を切り捨ててしまうことにもなったようです。読み:うつくしき いのちをおしと かみのいいぬ ねがいのそれは はたしてしいま
子だくさんであるがゆえに大変な思いをしたのでしょう、与謝野晶子は「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、工業物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」という論旨の文章を「横浜貿易新報」(現・神奈川新聞)に寄稿したことが改めて伝えられました。七才になる子供が脇に来て、私の書いた歌を少しずつ読んでいる春の夕暮れださらに、この詩は、晶子が光と秀の子どもを二人得てからの明治37年時点のものであり、命の大切さという主題が、出産を経て母となった時期の晶子の作品だということも記憶しておきたいところだと思います。与謝野鉄幹は名の通った歌人ではありましたが、確実な収入があったというわけではなかったようです。そして、それから約100年後、人々がその文章を思い起こした新型コロナの流行の経緯はここに記すまでもないでしょう。与謝野晶子の短歌というと、常に鉄幹との不倫時代の恋愛の短歌ばかりが取り上げられていますが、一面で、晶子は立派な家庭人であったと思われます。しかし、子どもの病気に関して、このような母としての思いを読んでいます。歌を読む前に書いておくべきことは、「君死にたまうことなかれ」は、日露戦争が始まったときに書かれた詩で、戦争に兵士として参加する弟を思って書いた詩です。ただし、与謝野晶子の当時10人の子どものうち1人が感染、それがうつったのか家族がスペイン風邪に次々と感染するという出来事がありました。与謝野晶子はその後も、子どもを産み、子どもの数は、全部で12人、うち1人が乳児の時に亡くなっています。家庭人としてまた、歌人として精力的に仕事をした与謝野晶子ですが、作品は恋愛の短歌の『みだれ髪』だけではありません。兎の絵や魚の絵などを子どもに書いてやって見せているのだが、やや味気ないものだ与謝野晶子がスペイン風邪で子供を亡くしたという、誤った情報が一時期ネットで出回りました。双子の女の子たちが、かわるがわる父である鉄幹に甘えている様子のようです。新型コロナの流行と共に、与謝野晶子はスペイン風邪の流行の折、子どもを亡くしたとネットで伝えられました。いとおしくも我が子が取ってきて指に挟んだ蝶の羽から、白い粉が散るあなたに似た小さな人である子どもがいるので、我が家の中は光り輝いている。その人は神より来たのではないか抽象的な内容にとどまっていますが、神話の影響が背景にあるという指摘があります。それでは、ほとんど知られていない、与謝野晶子の子どもを詠んだ短歌には、どのようなものがあるのでしょうか。与謝野晶子とスペイン風邪に関するエピソード、それと、与謝野晶子が子どもを詠んだ短歌をご紹介します。少女子(おとめご)は父の胸に抱かれて、そのことをまるで天下をおさめるようなことと言う腹が立った様子で住をまき散らしている3歳の我が子をそのままにさせて、鶯の泣くのを聞いている亡くなったわけではなくて、与謝野晶子の家族がかかったということが本当のようです。与謝野晶子の作品は5万首とも言われ、膨大な量があるので、調べるのもむずかしいのですが、子どもの短歌で目についたものをまず2首あげておきます。清らかに我が子が病気になって伏せている様子は清らかでもあり、その時の悲しさは、水の底に月が沈んているような心持だ光と秀の二児を得た晶子が、子どもが家にある喜びを歌った作品です。子どもたちの新調した着物が一様に新美しい5月1日の今日、あやめが咲いている与謝野一家のスペイン風邪の罹患は大正7年の出来事であったようです。そこで、妻の晶子が奮闘しながら、仕事と子育てをこなしたわけなのです。 与謝野晶子がスペイン風邪で子供を亡くしたという、誤った情報が一時期ネットで出回りました。亡くなったのではなくて晶子自身と家族がかかったということです。晶子のスペイン風邪に関するエピソード、与謝野晶子の子どもを詠んだ短歌をご紹介します。