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平泉平安時代末期の陸奥の豪族。父は経清。母は安倍頼時の娘。父が前九年の役に安倍氏に従って敗死したのち,母が清原武則に再嫁したため,武則のもとで育った。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 藤原泰衡の用語解説 - [生]久寿2(1155)[没]文治5(1189).9.3. 藤原泰衡(ふじわらのやすひら) とは、平安時代 末期~鎌倉時代初期の武将。 東北一帯を支配していた豪族、奥州藤原氏第四代にして最後の当主である。. è¤åæ°ããé æ°ã«æ¯æããæ ããã¦ãã証ã¨ãã¦ä¼ãããã¦ãã¾ãããããå®ã¯ãæ³°è¡¡ã®éèµ°ãé ãããã«ãæ²³ç°æ¬¡éãå°å ã®äººã ã«ãæ³°è¡¡ãæ»ãã ã¨è¦ããããããæ示ããã¨ããè¦æ¹ãã§ãã¾ãããããã«ãã¦ããæ³°è¡¡ã®ããã«800年以ä¸ãé¦ç¥ç¤¾ãå®ãç¶ãã¦ããå°å ã®äººã ã®æãã¯ãä»ãæ¶ãããã¨ãªãç¶ãã¦ãã¾ãã 藤原氏四代とは、以下の4氏を指します。但し、調査の結果、藤原忠衡と伝えられているものは藤原泰衡の可能性が高いという結論に達しました。 藤原氏四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用] その後、1994年に中尊寺からの依頼で藤原氏四代の遺体を観察した埴原和郎[1927-2004]により、再検証が行われました。この中で、ミイラは自然にできたものであり、鎌倉時代人や近世アイヌよりも、現代京都人に近いことが確認されています。但し、藤原基衡は貴族化が著しいものの、清衡や秀衡はエミシ系の安倍氏出身の母親の影響を受けていることも指摘しました。但し、長谷部言人が指摘した、藤原基衡と藤原秀衡の遺体が入れ替わったかどうかは形態から推定するには限界があり、将来的にDNA鑑定を行う必要も指摘しています。藤原氏四代のミイラを人類学的に調査したのは、東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木 尚[1912-2004]でした。この藤原忠衡の首には、16箇所もの切創や刺創が認められました。中でも、眉間の左から後頭部にかけて直径約1cmの孔が認められ、これは、八寸釘(約24cm)を使って釘打ちの刑に処した上でさらし首にしたものと推定されています。藤原氏四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用]これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処したと推定されました。藤原氏四代とは、以下の4氏を指します。但し、調査の結果、藤原忠衡と伝えられているものは藤原泰衡の可能性が高いという結論に達しました。第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)中でも注目された成果として、首だけが保存されているミイラでした。このミイラは、中尊寺では藤原忠衡のものと伝聞されていましたが、調査の結果、藤原泰衡のものである可能性が高いと結論づけられています。岩手県平泉町に所在する中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。藤原忠衡(藤原泰衡)の首の切創と刺創(赤い部分が釘の跡)[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]藤原秀衡を計測中の鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]藤原忠衡(藤原泰衡)のミイラを調査する鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]藤原四代のミイラを研究した、鈴木 尚と長谷部言人は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しました。藤原一族は、従来蝦夷と呼ばれており、初代清衡の高祖父・安部忠頼が「東夷の首長」と呼ばれ、三代・秀衡は自ら「俘囚の上頭」と称していました。しかし、アイヌ的要素(現在で言う在来系あるいは縄文系)は無く、渡来系あるいは弥生系の形質を持つことも明らかにしています。 藤原泰衡の異母兄である藤原国衡が陣を構え、大将の泰衡はその少し北の多賀で待機します。 1189年8月その阿津賀志山に源頼朝軍が攻めてきます。 ・・・奥州軍は、大規模な抵抗を見せましたが、源頼 … このような最高の条件で急成長を遂げた都市が、現在、世界遺産となっている奥州平泉でした。藤原秀衡はこの願いを受け入れるか迷います。頼朝と敵対する義経を受け入れるということは、鎌倉にいる頼朝との全面戦争の可能性を示唆しているからです。義経を受け入れるということは、一貫して平和主義を貫いてきた今までの奥州藤原氏の方針を大きく変えることを意味するのです。頼朝は義経が源氏の本拠地である鎌倉に入ることを拒み、実質的に義経を鎌倉から追放します。困りに困った源義経は、昔にお世話になった藤原秀衡に自分を匿ってもらうようお願いします。1187年の話です。この記事でも泰衡のことは批判的に書いてます。しかし、頼朝が大きな力を持つようになっていた当時の情勢を考えると、仮に泰衡が父の秀衡のように義経を匿い、頼朝と徹底抗戦したとしても奥州藤原氏の滅亡は免れなかったのでは?なんて思ったりもします。源頼義は清原氏に賄賂を送り続け、味方となるよう説得。こうして清原氏の参戦が決まります。清原氏が源頼義側に付いたことで戦況は一変。安倍氏は一気に不利な状況に追い込まれ、1062年、遂に安倍氏は滅ぶことになります。1083年、清原氏が支配するようになった東北地方で再び戦乱が起こります。きっかけは、清原氏一族内部の土地をめぐる争いでした。頼朝「俺と奥州藤原氏ってさ仲悪いけど、泰衡が義経の首を差し出してくれたら俺、奥州藤原氏に手出しなんかしないよ?だから義経の首はねてくれてもいいんだよ?」奥州藤原氏の初代。前九年の役・後三年の役という激動の時代を生き残り、運も味方して奥州一帯の支配権を手に入れました。が、義経の強い想いに負け、頼朝の元に馳せ参じることを認めることにしたのです。奥州藤原氏は、東北で採れる砂金や馬、蝦夷の産物を朝廷に貢ぐことでうまく朝廷と政治交渉を図りました。朝廷側も反乱の意思のない奥州藤原氏を強く抑圧するつもりもなかったようで、奥州藤原氏の東北支配を黙認するようになります。泰衡は、愚かな理由で義経を自害に追い込み、奥州藤原氏を滅亡させた張本人。基本的にあまりいい話題で語られることは少ないです。特に民衆に超人気だった義経を自害に追い込んだことが、泰衡の評判を悪くしている大きな理由だと思います。奥州藤原氏の4代目。頼朝の嘘や圧力に屈し、義経を自害に追い込んだ人物。1190年に頼朝に攻められ奥州藤原氏は滅亡してしまいます。奥州藤原氏の2代目。この記事では登場しませんでしたが、初代の清衡が築き上げた奥州支配の維持に勤めました。清衡の後継者争いで揉めたり、国司とトラブったりとトラブルの多い人物でした。しかし、奥州の統治を立派に成し遂げ、次代の秀衡に奥州を託します。こうして東北地方は源義家のもの・・・となるところでしたが、そうはなりませんでした。源義家は戦乱中の納税義務を果たすことができず、朝廷から役職を奪われてしまったんです。こうして権力の空白地帯となった東北地方を、棚ぼた的展開で支配するようになったのが清原氏の唯一の生き残りだった清原清衡でした。結果的に後三年の役は源義家の勝利に終わり、清原氏は義家と味方だった清原清衡を除き全て滅んでしまいます。この藤原秀衡はとても頭の切れる人物で、おそらく4代続いた奥州藤原氏の中で一番有名な人物です。これは奥州藤原氏にとって目も当てられないほどの愚行でした。1190年、頼朝は過去に義経を匿っていたことを理由に奥州藤原氏に戦争を仕掛けます。俗に言う奥州合戦と言うやつです。泰衡はまんまと騙されたのです。藤原清衡が支配するようになった東北地方は、地勢的に最高の環境に恵まれ、あっという間に強大な力を持つようになりました。しかし奥州藤原氏のこの外交術は源義経によって破綻。奥州藤原氏は、源頼朝の策略によって1190年に滅ぶことになります。平泉の中尊寺へ観光へ行かれる方はなどはぜひ参考にしてみてください。奥州藤原氏の3代目。源平合戦という激動期に奥州藤原氏を支配した人物で頭の切れる人物。頼朝も一目置いていた存在で、秀衡の存在それ自体が頼朝の抑止力になっていました。源平合戦が起こった当時も、奥州藤原氏はこの方針を貫き通したため、日本各地で混沌とした内乱が行われていたにもかかわらず奥州藤原氏だけは戦に巻き込まれずその勢力を温存したまま過ごすことになります。源平合戦当時、源頼朝も背後に君臨し、強大な力をもつ奥州藤原氏を恐れていたとも言われています。(源平合戦時、源頼朝が鎌倉から動かなかった一因とも言われている。)当時、奥州藤原氏の初代の藤原清衡はまだ子ども。その父の藤原経清が活躍する時代でした。父の経清は、当初は朝廷側だったんですが、敵対する安倍氏と血縁関係にあったことから立場が微妙になり、途中から安倍氏側に寝返ります。藤原清衡は仏教への信仰も厚く、その経済力を外に見せつけるため建立されたのが有名な中尊寺です。特に金箔に覆われた中尊寺の金色堂は圧巻です。藤原秀衡の懸念は現実のものになりました。1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させるとすぐに、源頼朝と源義経の関係は険悪なものとなります。(ここでは細かい経緯は省略します)奥州藤原氏は、圧倒的な経済力と武力を持ちつつも露骨に朝廷に反抗することはしませんでした。奥州藤原氏は、一貫して朝廷と良好な関係を維持し続け、無駄な戦をしない方針をとりました。以上、4代続いた奥州藤原氏についてザッと説明してみました。最後に簡単にまとめます。この奥州合戦により藤原泰衡は敗北。こうして4代続いた奥州藤原氏は滅んだのでした。1180年、以仁王の挙兵に応じ、源義経の兄である頼朝も挙兵。富士川にて朝廷軍と戦になりますが、義経は兄を助けんと奥州から頼朝の下へと出兵することを藤原秀衡に願い出ます。なので、同じ平安時代でも平安京を中心とした文化とは異なった独自の文化が奥州にはあったと言われています。そしてそんな独自の文化が今でも垣間見ることのできる場所が、世界遺産となった奥州平泉なんですね。源義経は、父の源義朝が平治の乱で敗北したことで、鞍馬寺というお寺で隠居生活を続けることになります。頼朝は藤原泰衡に外交戦術を仕掛けます。(頼朝は外交戦術がプロ並みに上手い!)源頼朝は、奥州藤原氏の財力や武力もそうですが、何よりも藤原秀衡の頭脳を恐れていました。ところが、その秀衡はもういません。源義経を利用してより一層の力を得ようと考えますが、結果的に源義経を匿ったことを頼朝に利用され、奥州藤原氏滅亡のきっかけを作ってしまいました。(まぁ、息子の泰衡が悪いんですけどね!笑)詳しい経過は上の記事で解説してますので、この記事では概要だけおさらいします。
平泉平安時代末期の陸奥の豪族。父は経清。母は安倍頼時の娘。父が前九年の役に安倍氏に従って敗死したのち,母が清原武則に再嫁したため,武則のもとで育った。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 藤原泰衡の用語解説 - [生]久寿2(1155)[没]文治5(1189).9.3. 藤原泰衡(ふじわらのやすひら) とは、平安時代 末期~鎌倉時代初期の武将。 東北一帯を支配していた豪族、奥州藤原氏第四代にして最後の当主である。. è¤åæ°ããé æ°ã«æ¯æããæ ããã¦ãã証ã¨ãã¦ä¼ãããã¦ãã¾ãããããå®ã¯ãæ³°è¡¡ã®éèµ°ãé ãããã«ãæ²³ç°æ¬¡éãå°å ã®äººã ã«ãæ³°è¡¡ãæ»ãã ã¨è¦ããããããæ示ããã¨ããè¦æ¹ãã§ãã¾ãããããã«ãã¦ããæ³°è¡¡ã®ããã«800年以ä¸ãé¦ç¥ç¤¾ãå®ãç¶ãã¦ããå°å ã®äººã ã®æãã¯ãä»ãæ¶ãããã¨ãªãç¶ãã¦ãã¾ãã 藤原氏四代とは、以下の4氏を指します。但し、調査の結果、藤原忠衡と伝えられているものは藤原泰衡の可能性が高いという結論に達しました。 藤原氏四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用] その後、1994年に中尊寺からの依頼で藤原氏四代の遺体を観察した埴原和郎[1927-2004]により、再検証が行われました。この中で、ミイラは自然にできたものであり、鎌倉時代人や近世アイヌよりも、現代京都人に近いことが確認されています。但し、藤原基衡は貴族化が著しいものの、清衡や秀衡はエミシ系の安倍氏出身の母親の影響を受けていることも指摘しました。但し、長谷部言人が指摘した、藤原基衡と藤原秀衡の遺体が入れ替わったかどうかは形態から推定するには限界があり、将来的にDNA鑑定を行う必要も指摘しています。藤原氏四代のミイラを人類学的に調査したのは、東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木 尚[1912-2004]でした。この藤原忠衡の首には、16箇所もの切創や刺創が認められました。中でも、眉間の左から後頭部にかけて直径約1cmの孔が認められ、これは、八寸釘(約24cm)を使って釘打ちの刑に処した上でさらし首にしたものと推定されています。藤原氏四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用]これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処したと推定されました。藤原氏四代とは、以下の4氏を指します。但し、調査の結果、藤原忠衡と伝えられているものは藤原泰衡の可能性が高いという結論に達しました。第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)中でも注目された成果として、首だけが保存されているミイラでした。このミイラは、中尊寺では藤原忠衡のものと伝聞されていましたが、調査の結果、藤原泰衡のものである可能性が高いと結論づけられています。岩手県平泉町に所在する中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。藤原忠衡(藤原泰衡)の首の切創と刺創(赤い部分が釘の跡)[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]藤原秀衡を計測中の鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]藤原忠衡(藤原泰衡)のミイラを調査する鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]藤原四代のミイラを研究した、鈴木 尚と長谷部言人は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しました。藤原一族は、従来蝦夷と呼ばれており、初代清衡の高祖父・安部忠頼が「東夷の首長」と呼ばれ、三代・秀衡は自ら「俘囚の上頭」と称していました。しかし、アイヌ的要素(現在で言う在来系あるいは縄文系)は無く、渡来系あるいは弥生系の形質を持つことも明らかにしています。 藤原泰衡の異母兄である藤原国衡が陣を構え、大将の泰衡はその少し北の多賀で待機します。 1189年8月その阿津賀志山に源頼朝軍が攻めてきます。 ・・・奥州軍は、大規模な抵抗を見せましたが、源頼 … このような最高の条件で急成長を遂げた都市が、現在、世界遺産となっている奥州平泉でした。藤原秀衡はこの願いを受け入れるか迷います。頼朝と敵対する義経を受け入れるということは、鎌倉にいる頼朝との全面戦争の可能性を示唆しているからです。義経を受け入れるということは、一貫して平和主義を貫いてきた今までの奥州藤原氏の方針を大きく変えることを意味するのです。頼朝は義経が源氏の本拠地である鎌倉に入ることを拒み、実質的に義経を鎌倉から追放します。困りに困った源義経は、昔にお世話になった藤原秀衡に自分を匿ってもらうようお願いします。1187年の話です。この記事でも泰衡のことは批判的に書いてます。しかし、頼朝が大きな力を持つようになっていた当時の情勢を考えると、仮に泰衡が父の秀衡のように義経を匿い、頼朝と徹底抗戦したとしても奥州藤原氏の滅亡は免れなかったのでは?なんて思ったりもします。源頼義は清原氏に賄賂を送り続け、味方となるよう説得。こうして清原氏の参戦が決まります。清原氏が源頼義側に付いたことで戦況は一変。安倍氏は一気に不利な状況に追い込まれ、1062年、遂に安倍氏は滅ぶことになります。1083年、清原氏が支配するようになった東北地方で再び戦乱が起こります。きっかけは、清原氏一族内部の土地をめぐる争いでした。頼朝「俺と奥州藤原氏ってさ仲悪いけど、泰衡が義経の首を差し出してくれたら俺、奥州藤原氏に手出しなんかしないよ?だから義経の首はねてくれてもいいんだよ?」奥州藤原氏の初代。前九年の役・後三年の役という激動の時代を生き残り、運も味方して奥州一帯の支配権を手に入れました。が、義経の強い想いに負け、頼朝の元に馳せ参じることを認めることにしたのです。奥州藤原氏は、東北で採れる砂金や馬、蝦夷の産物を朝廷に貢ぐことでうまく朝廷と政治交渉を図りました。朝廷側も反乱の意思のない奥州藤原氏を強く抑圧するつもりもなかったようで、奥州藤原氏の東北支配を黙認するようになります。泰衡は、愚かな理由で義経を自害に追い込み、奥州藤原氏を滅亡させた張本人。基本的にあまりいい話題で語られることは少ないです。特に民衆に超人気だった義経を自害に追い込んだことが、泰衡の評判を悪くしている大きな理由だと思います。奥州藤原氏の4代目。頼朝の嘘や圧力に屈し、義経を自害に追い込んだ人物。1190年に頼朝に攻められ奥州藤原氏は滅亡してしまいます。奥州藤原氏の2代目。この記事では登場しませんでしたが、初代の清衡が築き上げた奥州支配の維持に勤めました。清衡の後継者争いで揉めたり、国司とトラブったりとトラブルの多い人物でした。しかし、奥州の統治を立派に成し遂げ、次代の秀衡に奥州を託します。こうして東北地方は源義家のもの・・・となるところでしたが、そうはなりませんでした。源義家は戦乱中の納税義務を果たすことができず、朝廷から役職を奪われてしまったんです。こうして権力の空白地帯となった東北地方を、棚ぼた的展開で支配するようになったのが清原氏の唯一の生き残りだった清原清衡でした。結果的に後三年の役は源義家の勝利に終わり、清原氏は義家と味方だった清原清衡を除き全て滅んでしまいます。この藤原秀衡はとても頭の切れる人物で、おそらく4代続いた奥州藤原氏の中で一番有名な人物です。これは奥州藤原氏にとって目も当てられないほどの愚行でした。1190年、頼朝は過去に義経を匿っていたことを理由に奥州藤原氏に戦争を仕掛けます。俗に言う奥州合戦と言うやつです。泰衡はまんまと騙されたのです。藤原清衡が支配するようになった東北地方は、地勢的に最高の環境に恵まれ、あっという間に強大な力を持つようになりました。しかし奥州藤原氏のこの外交術は源義経によって破綻。奥州藤原氏は、源頼朝の策略によって1190年に滅ぶことになります。平泉の中尊寺へ観光へ行かれる方はなどはぜひ参考にしてみてください。奥州藤原氏の3代目。源平合戦という激動期に奥州藤原氏を支配した人物で頭の切れる人物。頼朝も一目置いていた存在で、秀衡の存在それ自体が頼朝の抑止力になっていました。源平合戦が起こった当時も、奥州藤原氏はこの方針を貫き通したため、日本各地で混沌とした内乱が行われていたにもかかわらず奥州藤原氏だけは戦に巻き込まれずその勢力を温存したまま過ごすことになります。源平合戦当時、源頼朝も背後に君臨し、強大な力をもつ奥州藤原氏を恐れていたとも言われています。(源平合戦時、源頼朝が鎌倉から動かなかった一因とも言われている。)当時、奥州藤原氏の初代の藤原清衡はまだ子ども。その父の藤原経清が活躍する時代でした。父の経清は、当初は朝廷側だったんですが、敵対する安倍氏と血縁関係にあったことから立場が微妙になり、途中から安倍氏側に寝返ります。藤原清衡は仏教への信仰も厚く、その経済力を外に見せつけるため建立されたのが有名な中尊寺です。特に金箔に覆われた中尊寺の金色堂は圧巻です。藤原秀衡の懸念は現実のものになりました。1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させるとすぐに、源頼朝と源義経の関係は険悪なものとなります。(ここでは細かい経緯は省略します)奥州藤原氏は、圧倒的な経済力と武力を持ちつつも露骨に朝廷に反抗することはしませんでした。奥州藤原氏は、一貫して朝廷と良好な関係を維持し続け、無駄な戦をしない方針をとりました。以上、4代続いた奥州藤原氏についてザッと説明してみました。最後に簡単にまとめます。この奥州合戦により藤原泰衡は敗北。こうして4代続いた奥州藤原氏は滅んだのでした。1180年、以仁王の挙兵に応じ、源義経の兄である頼朝も挙兵。富士川にて朝廷軍と戦になりますが、義経は兄を助けんと奥州から頼朝の下へと出兵することを藤原秀衡に願い出ます。なので、同じ平安時代でも平安京を中心とした文化とは異なった独自の文化が奥州にはあったと言われています。そしてそんな独自の文化が今でも垣間見ることのできる場所が、世界遺産となった奥州平泉なんですね。源義経は、父の源義朝が平治の乱で敗北したことで、鞍馬寺というお寺で隠居生活を続けることになります。頼朝は藤原泰衡に外交戦術を仕掛けます。(頼朝は外交戦術がプロ並みに上手い!)源頼朝は、奥州藤原氏の財力や武力もそうですが、何よりも藤原秀衡の頭脳を恐れていました。ところが、その秀衡はもういません。源義経を利用してより一層の力を得ようと考えますが、結果的に源義経を匿ったことを頼朝に利用され、奥州藤原氏滅亡のきっかけを作ってしまいました。(まぁ、息子の泰衡が悪いんですけどね!笑)詳しい経過は上の記事で解説してますので、この記事では概要だけおさらいします。