ゲド戦記の映画情報。2202件のレビュー(口コミ・感想・評価)、内容・ネタバレ、あらすじ、予告編・予告動画、公開映画館情報、公開スケジュール、監督・出演者の関連映画情報。宮崎吾朗監督、岡田准一出演。目ぇ怖っっっっ! 劇場公開から10数年ぶりに観たら、当時の感想がありありと … アーシュラ・K・ル・グウィン氏が先に原作『ゲド戦記』を仕上げていますが、映画版『ゲド戦記』はその内容から大幅に脚本を変えて発表されました。ここでテルーは、アレンに本来の正義の強さと、生きる意味のようなものを投げかけますが、アレンはそのテルーの本心から出る優しさに絆され、それまでの冷たい心境を忘れるようにテルーを抱擁します。おそらく『ゲド戦記』のメインの場面は、このシーンになるように思います。このような重厚で、また全ての人に共通・共有される奥深いテーマが、本作のメインストーリーに組み込まれています。実に素朴で何気ないシーンなのですが、このシーンは本作『ゲド戦記』の中でも非常に重要なシーンに思えます。さらにこの〝人生における孤独〟は、とても身近なところからやってきます。「影」や「心の闇」の意味も原作と本作では微妙に違うし、「アレンとハイタカ(ゲド)との関係」も大きく違う。だがクモは最後の足掻きのように城全体を破壊し、その魔法の力でアレンをあべこべに葬ろうとする。けれど本作『ゲド戦記』はその映画版で、原作をはじめから突き放す形で作られた感がないでもなく、それゆえの面白さや現代に通じる興味深さ・感動が、少なからず原作のそれに比べ、形を変えて登場しているように思います。実際、アレンが泣く場面はハイタカに抱擁されるシーンと、テルーの唄を聴いているときの2シーンが主ですが、アレンの表情を見ていると「いつも泣いている…」ような正直がさまよいます。『ゲド戦記』に登場するキャラクターの立ち位置と環境は、なぜか現代人のそれに深く共鳴しているような気がしてならないのです。ぜひこのシーンの前後から、テルーとアレンの関係を吟味してみて下さい。世界は魔力によって「人の価値観や道理の考え方に異常をきたす事変」をもたらされ、それによって全ての人間は殊に背徳の方へと姿勢を向けている。ストーリーの前半になりますが、アレンは「過去に犯した父親殺し」のこともあり、その罪にまつわる心の闇の部分は終始つきまとってきます。原作者のル・グウィンは試写会後、吾朗に感想を問われ「私の本ではない。吾朗の映画だ。」と述べた。たいていオマージュ作やスピンオフ作品というものは、その原作から構成・骨子の部分を大きく変えず、ベースや背景(人間・キャラクター関係を含む)をなるべくそのままにして、ただ「新しい世界観」をいろいろな角度から描くものが通常です。テルーは過去に、アレンの「影の部分」と出会っており、そこで〝唯一クモの闇の部分を滅亡に導く魔法の剣〟を授かっていた。というボディーコピーに見られたような、科学文明によって豊かになり過ぎた現代人の末路のようなものが、本作の世界観の根幹にやはりあります。普段、生活している私たちのうちにも、こんな「抱擁したい・されたい場面」があるような気がして、視聴者でもまるで〝自分のこと〟のように感動を思わされます。ハイタカに復讐を目論むクモは、テナーを人質にしてハイタカをおびき寄せ、そのまま息の根を止める算段だった。それは「魔法使い」や〝突拍子もなく飛躍したストーリー〟に現実味を持たせる、普遍的なワンカットに映るからです。公開当時は「宮崎駿の息子の作品ってどんなのだろう!?」と話題が持ち切りだった作品でもあり、また宮崎駿監督の絵物語『シュナの旅』もベースにしている長編アニメで、そのストーリー性の濃厚ぶりが特典です。私は『ゲド戦記』を放映後のDVDで観ましたが、「映画館で観ればよかったなぁ…」という感想がまず沸き上がってきたものです。もちろん「人の心情の移り変わり」や「影の部分」を扱った人間同士の模様も現実的なのですが、目に見えて、はっきりと現実の素晴らしさを浮き立たせているのはこの場面です。2008年7月11日に日本テレビの金曜ロードショーで地上波初放送された。近年のジブリ作品の地上波初放送の視聴率は20~30%台がほとんどだが、本作品は16.4%(関東地区・ビデオリサーチ)と低調だった。キャッスルロックは「アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない」と評した。そしてその〝末路〟が喜ぶべきものか悲しむべきものなのか、それさえわからない超自然的な脚色が、本作のプロットをその軸から支え上げているような気さえします。つまり全てのキャラクターが現実による喜怒哀楽を受け、またその延長において自分の末路を見つめています。『ゲド戦記』は宮崎駿の息子・宮崎吾朗監督の作品で、アーシュラ・K・ル・グウィン氏の小説を原作にした、2006年7月に公開された異例の1作!2006年度の最低映画との評価を、それぞれ独立した映画評論雑誌5誌から受けている。ハイタカはクモとの決着を一気につけようと城に入ったが、入った瞬間、その魔力を奪われ、逆に捕らわれてしまう。そうした人間界を彩るさまざまな境遇にある人を、クモという魔法使いに扮した得体知れずの存在が、全ての人の心の前に現れ、人の理念や信仰を自在に折り曲げていく。「あり得ないことが起こる」、このフレーズを元に『ゲド戦記』のボディーコピーはち密に練られ、それはまるで現代の人間を象徴するかのような、そんな暗躍するベースが立てられています。さらにその頃、多島海世界「アースシー」で事変が起きていた。架空の鳥獣・竜が人間界に現れて共食いし始め、万物の名前を記憶している筈の魔法使いはその全ての名前を忘れてしまう。竜という伝説上の生き物をあえて引き合いに出している点に、まるで現実逃避するような「現代の風潮に嫌気が差している人間」を暗示しているようで、それでいてストーリーの要所には〝現実とアニメの世界とをつなげる架け橋〟のようなものが綿密に敷かれている…。それまでどうしても心の闇を振り切れなかったアレンを、ハイタカが肩をしっかりと抱きながら、人の生き方や人生そのものについて説き明かし、まるで子どもをいさめるように励まします。共鳴というか共通というが、現代の人間に課された悲しさのようなものが、「1人の人生」を舞台にし、人それぞれの運命によって形を変えていくというような、何か興味深くもお堅い、豊かな感動を秘めているような気がします。この辺りの「非常にリアルな人間世界を表す脚色」に、どうぞご注目下さい。夕暮れと湿地帯のような泉を背にしたアレンの、得も言われぬ表情をどうぞご覧下さい。その街でアレンは、人買い・ウサギに襲われていたテルーを助けるが、逆に自分が捕まる。そして奴隷として今度はアレンが売られそうになった。原作にはない、王子が父を殺すエピソードについても、「動機がなく、きまぐれ。人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と強い違和感を表明している。『ゲド戦記』をジブリで映画化したかったプロデューサーの鈴木敏夫は、ジブリ内で『ゲド戦記』の映画化を検討する研究会を立ち上げた。このときに見せるアレンの泣きじゃくる姿は、その言葉にまるで図星を突かれたような、心底から救われている様子を実感させるもので圧巻です。このような「深くストレートにテーマを打ち出した作品」は、それまでのジブリ作品になかなか得られず、その視聴対象は主に子どもではなく「大人」に向けられているような、斬新な傾向も見受けられます。とても単純な目で見て言えば、その当時の「現代」をとても上手く把握していて、その当時に多くの人が煩っていた〝心の孤独〟のようなものを、実に純粋・純朴に描いている点が感動的です。そしてテルーはその心の傷の影響もあり、同じく心に〝闇〟という傷を持つアレンに歩み寄り、互いに励まし合いながら生きていく。どうぞこの何気ない風景に、「あなたが思う人間のあり方」を探究しみて下さい。この点に〝人が共有する孤独の正体はいったい何なのか?〟を探究できる、誰もが共有できる不変の魅力が現れます。このような単純なようで広過ぎる世界観を持ち、本作『ゲド戦記』のストーリーは進みます。ここでもハイタカとアレンの切っても切れない関係のようなものが、ありありと見られることでしょう。その自分に宿した影の部分に、アレンはただならぬものを見るかのように怯えて泣きます。今回は『ゲド戦記』に隠された数多の魅力と、それに派生する独断の感想と、なかなか知れない本作の制作にまつわるエピソードと名シーンなども一挙に紹介します!テルーは両親に虐待されて捨てられた後、テナーのもとで育てられ、その後はテナーとハイタカを実質の両親のように見て過ごしていく。ちょうどストーリーの中盤になりますが、テルーが1人で丘に立って唄うシーンです。その窮地をハイタカが救い出し、その後ハイタカはアレンを連れて、ある国の巫女だったテナーの家に連れていく。そして、そこでともに暮らすことを決意した。いろいろな場面に移り変わるストーリーを観ても、その幻想をベースに敷いた美しさは健在であり、たとえストーリー背景が残酷なものでもその「美しさを持つ夢の世界観」がフォローするような、そんな後味の良い作品に仕上がっています。これについては語っても語り尽くせないほどの思いがあり、思わず「…」とタイトルしてしまいましたが、人は誰でも必ず〝人生における孤独の部分〟を持っています。そしてその孤独による悲しみをときに慰め合ったり、またそれを過剰に意識し吟味し尽くすことで、「自分の人生における孤独はどこからくるのか?」という哲学的な思いを持たされます。またつい悪者として見られがちの「クモ」ですが、彼にしても地上で生きていることに変わりなく、それゆえ生きる上での大小問わずの悲しみや苦しさは、人間と同様に持っています。生死の瀬戸際に立たされたアレンは窮地に陥るが、テルーはそのとき元の姿・竜に変身し、逆襲してくるクモを葬った。ぜひこの辺りの感動とそれによる経験を、あなたの心で受け止めてみて下さい。竜の姿もそうですが、全てのキャラクターが登場する場面の景色がとても幻想的で、その幻想風景の中を躍動するキャラクターのあり方もとても新鮮で魅力的に映ります。アレンの本当の名前が「レバンネン」であったことがわかるシーンで、それまでの自分の心の咎のようなものがふんわり退いて、自分本来の正義と強さとを取り戻す場面です。ジブリアニメの立役者・宮崎駿監督の作品に匹敵するこの幻想さ加減を、どうぞ作品を実際にご覧になりながらご堪能下さい。テルーの場合は「親に捨てられた」というところからきて、アレンは「過去に罪を犯した、もう自分の正義は世間に通用しない」といった心の闇からきています。どうぞご機会のある人は、この原作と本作との違いに注目して、それぞれの相違点からどんな感動がやってくるかを追究してみて下さい。とくに「アレンが父親を殺す」というシーンは原作にはなく、それによって「心の闇―罪の意識」が影響するアレンとテルーとの関係描写も異なり、『ゲド戦記』は原作から完全に離れた「オリジナル作品」として世に発表されました(本作の試写会終了時にも宮崎吾朗さんはル・グウィン氏から、「この作品は吾朗の作品だ」と念を押されています)。その家には親に捨てられたテルーも住んでおり、アレンはそこで皆と一緒に田畑を耕したりしながらいっとき平穏に暮らす。確かに絵的には〝ただきれいに仕上げている〟で終わってしまうのかも知れませんが、この作品の魅力は実に、その本筋―メインストーリー・テーマ―にあると思っています。それぞれのキャラクターが織りなす〝関係模様〟の深みが、ストーリーが進むにつれて浮き彫りになり、またその浮き彫られたキャラクターそれぞれの存在が、「自分の生き方や人生の末路」について考え出します。映画、アニメ、ドラマ、原作文庫本のレビューや無料動画&電子書籍の紹介この辺りの作品に採られた暗喩的な象徴を、ぜひ本作をご覧になりながら追究してみて下さい。このときのハイタカのセリフも実に素晴らしいもので、まさにアニメの世界を超えて、現実に生きる私たちの心にもズシンとのしかかる、いつまでも記憶する言葉に他なりません。なぜかこのシーンに映るテルーとテナーの姿が、もの悲しく映ってきます。どうぞ本作『ゲド戦記』に隠された「大人向けの感動」を、あなたなりに深く味わってみて下さい。この「疑うことなく」というのは、おそらく〝与えられた命を全うするしか、人には他に術がないから〟でしょうか。ル・グウィンはこのコメントの中で、「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などと記した。人は「死ぬこと」を経験したことがないですから、その苦しみがどんなものなのか、よくわからないものですが、それほどに冷遇に対する苦悩をもって人生を生き、また自分の人生の一途を疑うことなく辿っていきます。その事変に引き続きアレンも、もとより心に宿していた闇の部分に弄ばれ、クモの毒牙にかかる形で城に幽閉される。ぜひこのシーンだけはゆっくり見つめてほしいです。私的にテルーとアレンが登場するシーンで1番好きなワンカットです。人が何を見て・感じて・聞いて・触れて感動するのか、また落胆するのかということが、そのままストレートに表現されているようで、またその喜怒哀楽を思わす人生の出来ごとを、それぞれのキャラクターがさまざまな境遇で迎えていきます。生死の境界を越えて、生人のリクエストにより黄泉から死人を甦らせてきた「クモ」という魔法使いは永遠の命を求めるために、それまでその魔力を押さえつけていたハイタカ(ゲド・アースシーの大賢人)に反抗し始め、また世界平和のバランスは崩れた。本作への批評を見てみるとなかなか酷評が多くあるようですが、私としては非常によい出来に思えます。「農民は田畑を耕さず…」というボディーコピーにあるような「現代が従来の人間の生活のあり方」を忘れさせ、幾度となく〝科学の餌食となってきた人の心〟をまた復活させるほどの記憶が、この田畑を耕すという作業に映し出されている気がします。とき同じくしてエンラッドの王子・アレンは自分の心の中の光(正義の部分)を失い、代わりに闇の部分が大きくなって、自我喪失に近い形となる。なかなか普段生活していて〝思いつけないようなこと〟を発想の起源とし、その発想のタネから繰り広げられるストーリーの全般は、やはりとても濃厚な世界観に彩られます。