徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ、旧字体:德川慶喜、1837年 10月28日〈天保8年9月29日〉- 1913年〈大正2年〉11月22日)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 1月10日〈慶応2年12月5日〉‐ 1868年 1月3日〈慶応3年12月9日〉)。 江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 やむなく慶喜は、慶応4年元日、不本意ながらも薩摩を糾弾する討薩表を記し、1月3日、ついに鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされた。 朝廷に弓引く気持ちはさらさらないが、そばに控える薩摩はなんとしても排除せねばならぬという覚悟である。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市 南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市 伏見区)、橋本(京都府 八幡市)で行われた。 鳥羽伏見の戦いで終わる言葉の人名事典の検索結果。 - 80万項目以上収録、例文・コロケーションが豊富な無料英和和英辞典。 茨城大学の磯田道史さん(歴史学者)が徳川慶喜の命日(11月22日)に因んで興味深い記事を 朝日新聞に載せていた。 それによると、1913年(大正2年)77歳でなくなった由。 彼はどこまでも理知的な男で、好奇心旺盛で76歳の時自家用車の運転させて乗り回していたとか。 主だった敵が消え失せた状況で慶喜が将軍に就任するや1年ほどの間に徳川解体が一気に進みます。 鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日 - 6日(1868年 1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。. ・ 江戸に逃げた徳川慶喜は、新政府軍が来ると、戦意喪失。降伏。 ・ 結果的に、最初の鳥羽伏見の戦いにおける油断が、すべてを決した。 ・ もしこの油断がなければ、幕府が続いて、明治維新はなかった。 スペイン風邪とは関係ないが、最後の将軍徳川慶喜も、本来は懐柔策の予定だったが、大阪城でインフルエンザに罹患し体調を崩して、強硬派に突き上げられて武力衝突を短絡的に容認してしまい、鳥羽伏見の戦いに突入し新政府側の思う壺になって、明治維新への道筋をつくってしまった。 (黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽伏見の戦い勃発 . ・ 江戸に逃げた徳川慶喜は、新政府軍が来ると、戦意喪失。降伏。 ・ 結果的に、最初の鳥羽伏見の戦いにおける油断が、すべてを決した。 ・ もしこの油断がなければ、幕府が続いて、明治維新はなかった。 鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、1888年1月6日夜、松平容保(京都守護職)、松平定敬(京都所司代)、老中酒井忠、老中板倉勝静をともない、大坂城に兵を残したまま、秘密裏に幕府の軍艦開陽丸で江戸城に戻る。このとき幕府の軍艦を率いていたのが榎本武揚であった。一方、鳥羽・伏見の戦いに勝利した朝廷は、1月7日、徳川慶喜の追討令を発し、将軍、容保、定敬らの官位剥奪と旧幕府領を新政府の直轄とすることを発表した。鳥羽口で一発の大砲が放たれたのをきっかけとして、戊辰戦争が開始された。旧幕府軍は、様子を見ていた畿内諸藩の寝返りにより敗戦する。徳川慶喜は大阪城に兵を置いて江戸に逃れることとなり、当時、多くの批判を集めた。1月5日、淀藩は旧幕府軍の入城を拒否した。旧幕府軍は八幡・橋本へ退いた。1月6日、旧幕府方の味方であった津藩(藤堂氏)が山崎から、八幡・橋本の旧幕府軍に砲撃した。同夜、徳川慶喜は大坂城を抜け出し、船(開陽丸)で江戸に戻った。夕方、淀城に入った旧幕府軍は、二手に分かれて京都を目指すこととなった。陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげたか)は伏見街道を北上し、伏見奉行所を本陣とし、大目付の滝川具挙らの別働隊は鳥羽街道を北上して京都へ向かった。これに対し、新政府軍は長州藩らが伏見奉行所を包囲し、薩摩・彦根藩士らは鳥羽街道を固めた。
スペイン風邪とは関係ないが、最後の将軍徳川慶喜も、本来は懐柔策の予定だったが、大阪城でインフルエンザに罹患し体調を崩して、強硬派に突き上げられて武力衝突を短絡的に容認してしまい、鳥羽伏見の戦いに突入し新政府側の思う壺になって、明治維新への道筋をつくってしまった。 戊辰戦争で一体どれくらいの死者が出たかわかる人はいませんか?いたら教えてください高校の教科書で掲載されてる内容だと・・全体:戊辰戦争の犠牲者数8420人、その内、・新政府側3550人・旧幕府側4690人さらにその内、・薩 鳥羽伏見の戦い|戊辰戦争鳥羽口で一発の大砲が放たれたのをきっかけとして、戊辰戦争が開始された。旧幕府軍は、様子を見ていた畿内諸藩の寝返りにより敗戦する。徳川慶喜は大阪城に兵を置いて江戸に逃れることとなり、当時、多くの批判を集めた。目次大政奉 鳥羽伏見の戦いの後からの大阪城敵前逃亡はお世辞にもカッコいいとはいえないです。 ただ最近、私は聡明な慶喜は「もう江戸幕府じゃ時代についていけない」っていうことを見抜いていたのではないか、と思うようになってきました。
息子の慶喜は徳川惣領である将軍になって、いざ鳥羽・伏見の戦いの時、インフルエンザに罹っていて、思考力低下。 それならソレで、家臣に迎撃なり籠城なり、方針だけでも伝えて、寝込んでいれば良いものを、「――勝手にせい」なんて言って、組織の長としての役割すら放棄。 側近の様な人物は普通に居たと思われますよ。将軍ですから。しかし、体制(趨勢)に影響を与える様な大物は居なかったのかも知れません。現代まで名前が知られている様な人物(側近)が居ないのは特筆される功績なりを残していないからでしょうね。言ってみれば、その他大勢レベル?!戊辰戦争の番組を見ててふと疑問に思いました。慶喜は子飼いの家臣というのはまったくいないのでしょうか?幕末に重用された人物は小栗忠順にしろ永井尚志にしろ普通に旗本上がりばかりに思えますし、大坂城からの敵前逃亡にしろ普通側近に敗兵の処置を命じてから引くでしょう。御三卿に藩組織が無いのは知ってますが、父親(隠居済みですが)の水戸藩から筋のよい家臣をもらってくるなり、かねてから交流を持ってて引き立てる旗本がいたりしなかったのでしょうか?どうにも官僚組織に一人で乗り込んで潰されたどっかの知事みたいに、いくら将軍といえど側近がいなければ何も出来ないだろうと感じました。そこはよくできたもので、家康が作り上げた江戸幕府のシステムは、誰か特定の人物や派閥が幕府を牛耳ることができないように丁寧に作られているのです。「優れた指導者とそのブレーンによるトップダウン型の決断で組織が素早く動く」っていうのは幕末のような緊急時には上手く回ることはありますが、その反面「独裁者とそのブレーンが国家を乗っ取る」ということにもなります。それは得てして国家の腐敗と崩壊につながるので、家康はそうならないように何重も仕掛けをしておいたのです。そして、そうだったからこそ江戸幕府は二百年以上の長きに渡って反乱を起こすこともなく続いたのだと思います。私は長い間、徳川慶喜は育ちのいいエリートにありがちなここぞのときに腰砕けするタイプだと思っていました。鳥羽伏見の戦いの後からの大阪城敵前逃亡はお世辞にもカッコいいとはいえないです。ただ最近、私は聡明な慶喜は「もう江戸幕府じゃ時代についていけない」っていうことを見抜いていたのではないか、と思うようになってきました。どのみち徳川政権は崩壊するしかない。それならば徹底抗戦して人々の生活を苦しめるより、戦争なんてバカバカしいからさっさとやめたほうがいい、と思っていたのではないかな、とも思っています。徳川方がどんなベストな手を打ったとしても、あの時代に中世的な国家システムは維持できず、もし無理やりに維持しようとしたらそれこそオスマントルコのように没落したら立ち直れなくなったかもしれません。信長だって負け戦には殿を残して真っ先に逃げてるわけで、負け戦に将軍がだらだら留まるよりは逃げるほうが正しいと思いますがねえ。畿内で後事をたくせる人材が皆無なところが、いかにも慶喜を無様にしたと思ってます。敢えて言えば,やはり,会津藩主の松平容保氏とか,容保氏の実弟の,桑名藩主の松平某氏とかでしょうか,あと幕臣(旗本)の勝海舟氏とも,仲が,良かったみたい(懇意)ですが,徳川慶喜氏って,けっこう風来坊で,気まぐれで,ちょっと変わってて,何を考えてるか,分からない感じの方だったようですので,もちろん,小さい頃から,英才教育を受けた秀才で,頭の良い方だったようですが,自分が,将軍職に就いても,正室は,大奥に入らず,徳川慶喜氏は,大奥の文句などを言っていたようで,勝海舟氏の談話によると,天璋院篤姫氏も,徳川慶喜氏を,嫌っていたとか..幕末期の水戸藩自体も,尊皇攘夷過激派グループが,井伊直弼氏暗殺事件などに関わったり,徳川慶喜氏の父親亡き後は,尊皇攘夷過激派などの,天狗党の乱があったり,藩内で,佐幕派と尊皇攘夷派が対立したり,天狗党の乱を,徳川慶喜氏が,成敗したり,結局,徳川慶喜氏は,ほとんど,京都に居て,孝明天皇の近くに侍っていたので,あまり,当時の江戸城や,幕臣達などと,関わりが無かったのかもしれませんし,明治期には,自由人として,生きていました..うーん戦国時代ならともかく幕末ですので、本当にそれにあたる人がいたら記録が残るはずと思うんですよね。特に口の軽い勝海舟あたりとか。ご回答ありがとうございました。確かに何人か無能が混じっても平時にそれなりにまわるのが家康の築いたシステムですが、必要とあれば何人かの将軍は側用人を重用したわけで、慶喜も考えたはずと思うんですよねえ。ご回答ありがとうございました。ことごとく暗殺されてるって悲惨ですね。将軍としてのやる気の無さや行動力の乏しさも現実にはこの辺の事情があるんでしょうねえ。ご回答ありがとうございました。 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が本陣としていた伏見奉行所跡。 現在は石碑のみが残る ひとまず大坂城に撤退した徳川慶喜は、家臣たちに「最後の一騎になっても退くことは許さない」と檄を飛ばして将軍の威厳を示しました。