ジャイアント馬場 32文ロケット砲 32連発 - Duration: 7:55. matsutakekun 148,860 views.
7:55. Baba & Hansen vs Kawada & Taue (December 10, 1994) - Duration: 46:28. 今回は、40年前の1979(昭和54)年8月26日に行われた、ジャイアント馬場とアントニオ猪木 最後の共闘。 昭和プロレス"夢のオールスター戦"をご紹介します! 3団体による戦国絵巻、昭和のプロレス界 力道山亡き後、昭和の日本のプロレス界は3つのメジャー団体がしのぎを削っていました。 ジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー組対ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組の時間無制限一本勝負というマッチメイクで、pwf会長のロード・ブレアースが立会人、ジョー樋口が特別レフェリーをそれぞれ務めた。 坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー。柔道家。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口憲二。 ジャイアント馬場さんを主体として編集された記録映画「嵐を呼ぶ16文砲」のポスターです。 たぶん1964年頃製作されたものと推測するのですが、銀幕初登場となっているのは、これは間違い。 大木金太郎。日本プロレス時代は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木とともに三羽烏といわれ、または吉村道明を加えた四天王ともいわれた、昭和プロレスの中心レスラーである。では、その大木金太郎にとって印象深い試合はどんなものがあっただろうか。 改めてこの「オールスター戦」の対戦カード(と勝敗)を見ると、実に巧みに互いのプライドを尊重しながら、双方のメンツに配慮したもので、調整がさぞかし大変だっただろう、と感心します。8月1日、ようやくオールスター戦の全カードが決定。発表されました。馬場 猪木vs鶴田 藤波も確かに見たかったですが、格からして両者リングアウトというわけにもいきませんが、完全決着となると誰が誰からフォールを取るか、かなりややこしい話になります。テレ朝の古舘アナが馬場の試合を、日テレの倉持アナが猪木の試合を実況したのはこれが最初で最期となりました。共にプロレスファンとして嬉しかったでしょうね…。国際プロレスは人気、視聴率共に後発の2団体の後塵を配し、テレビ中継も全国ネットのTBSから東京12チャンネルのローカル放送となり(1974 昭和49年)、当初は全日本プロレスと、この時期は新日本プロレスと提携して奮闘していました。これにはプロレスファンは狂喜、遂に馬場vs猪木戦が実現か!となりますが…結局、実現しなかったのは皆さんご存知の通りです。ファンクスは日プロ時代、最後にBI砲からベルトを奪った因縁もあり、元NWA世界チャンプ兄弟で、知名度も人気も申し分ありません。しかし、ファンクスはだれが見ても「馬場 全日プロの選手」であり、猪木からすると1vs3。全日本プロレスとしても人気商品に猪木によって傷をつけられたくはありません。そして7月25日、銀座 東急ホテルで馬場、猪木、吉原の3代表会談が行われ、会談後の会見で主な対戦カードを発表。審判委員長に吉原代表が就く事も決定しました。当時の新日プロ営業本部長であり猪木のマネージャーである新間寿氏は、「猪木の人気の方が馬場より上」とアピールするため、息子に小遣いを渡して友達を大量に動員して、「会場でイノキコールをやれ」と命じたそうです。それが後で馬場さんの知るところとなり露骨に嫌な顔をされた、というのは有名なエピソードです。後の多団体、対抗戦時代しか知らない人には分からないと思いますが、この時代、新日本プロレスvs全日本プロレスの全面対抗戦はどんな試合カードがいいか、勝敗はどうなるのか、すべてのプロレスファンが夢想したものでした。私は当時9歳。まだプロレスの見方もわからない時期で、この大会の意義も知らず、そもそもTV中継がないため、実施された事も後に雑誌で知りました。リアルタイムで体験した人は、さぞかし興奮したでしょうが、地方在住の人からすると日本武道館は遠い…。※当サイトで掲載している画像や動画の著作権・肖像権等は各権利所有者に帰属します。 スポーツ 週刊新潮 2016年3月10日号掲載 両雄並び立たずとよく言う。17年前に61歳で逝ったジャイアント馬場とアントニオ猪木(73)もまた然りである。
肝炎を患い、早期に引退されたことが、なんとも残念としかいいようがありませんでした。メインエベントはジャイアント馬場&アントニオ猪木組対アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン組というカード。今からちょうど40年前、昭和54年8月26日、プロレス・オールスター戦が行われました。ジャンボ鶴田選手が亡くなって、今日でちょうど20年経ちました。当時としては、プロレスファン垂涎の組み合わせだったと思います。たぶん1964年頃製作されたものと推測するのですが、銀幕初登場となっているのは、これは間違い。素材は特殊レオタード生地で、感触はフィット感もよく着け心地もサラッととしています。このマスク、初代タイガーマスクや獣神サンダーライガーのマスク(覆面)を手掛けた、豊島裕司さん作のSIMA製「マスク」です。昭和48年10月14日に行われた、アントニオ猪木&坂口征二組対ルー・テーズ&カール・ゴッチ組の「世界最強タッグ戦」と名付けれた一の線ポスターです。今では珍しい手巻き時計で、動いてる間、馬場さんの右足も上下します。いかんせん、試合運びが荒いというか、手抜きというか、見た目に全力を出し切っていない、、、とよく言われてましたね。天性の運動神経とスタミナ持続力は日本人レスラーの中では、随一ではなかったかと思います。この時点で米国製作の「Marines Let's Go」という朝鮮戦争頃を題材とした映画と、日本では、1963年頃製作された「喜劇駅前茶釜」に出演しています。ジャイアント馬場さんを主体として編集された記録映画「嵐を呼ぶ16文砲」のポスターです。これ、40数年前にゴング誌から販売された、ミル・マスカラスの応援用マスク(覆面)の匂いとそっくりなんですよね。 坂口征二が語る「馬場と猪木」本当の仲.