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婚前交渉「受け入れられる」4割満たず 広州の若者は婚前交渉をどう考えているのか。調査によると、婚前交渉を「受け入れられる」という人は36.3%、「受けられられない」という人は20.1%、「状況による」という人は43.6%だった。 宗教の違いって日本だと普段あんまり気にすることってないですが、結婚を考えるくらいの間柄だとやはり重要な課題となってきますよね。教えていただいたエピソードにはかなり共感しながら読みました。 彼と結ばれたいという気持ちはもちろんまだありますが、それとともに今は「これま� ということで、実際のアンケ—ト調査からも、映画屋ドラマに見られる文化的な背景からも、親世代にとってお泊まりデートは許されないこと・恥じるべきことであることが分かります。次の日家に帰ったら「男の人と二人で泊まりは辞めなさい」と言われました。転職とか引っ越しとかお金もかかって大変そうに思われますが、寮付きの会社とか、リゾートバイトとかだと、わりと身ひとつで転がり込んで働けるところはあります。信じていた人に見捨てられ、寂しさを紛らわすように刺激的なゲームやネットの掲示板や動画を見まくり、一食にご飯を2合食べるほどの過食も止まらず、コンビニの袋だらけでゴミ屋敷寸前・・・。「両性の合意のみに基いて成立」するので、親が反対しようと何しようと、法律的には一切関係ない!ってことです。まだ20代なのが信じられないくらい色んな経験をしていて知識も豊富なのですが、何よりも「良い未来」を信じさせてくれる不思議な説得力があります。いろいろと恋の燃え上がるイベントを経て、二人は結ばれ同棲を始め、みち子は妊娠しますが、真の兄よって中絶させられてしまいます。私の場合は、親がめちゃくちゃ厳しくて高校のときは門限が18時(! 外国人の彼氏・彼女がいる方の中には、婚前交渉がokか否か悩む方もいらっしゃることでしょう。そこで、参考として世界の国々の婚前交渉の実態を調査いたしました。海外の方との結婚を視野に入れている方は、ご参照頂ければ幸いです。 また、日本では雑誌などで、婚活について特集されていることも多いが、ヨーロッパでは見かけない。 日本のように、「婚活パーティーで異性の心を掴むコツ」「恋人を結婚に踏み切らせる方法」などの結婚を意識したうたい文句のある雑誌を見かけることはあまりなく、恋愛観も異なるようだ。 1973年から40年にわたって日本人の物の見方や考え方を調査した「日本人の意識」調査によると、お泊まりデートすなわち婚前交渉の考え方には40年間で大きな変化が見ら … ◇ (No.17お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ 結論の先取りになりますが、 「だ・か・ら、もはや縦の愛は要らない。横の愛だけでいいはずだ」 です。 《仏仏》、《唯仏与仏》でいいと思います。 ―――法華経や日蓮系の人たちの言う《唯仏与仏》じゃないですよ~。「ただ仏と(与)仏のみ」です――― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《仏仏一如》は タテの愛ですよ。梵我一如や霊霊一如と同じく。 もっとも 《〈仏仏一如〉なる人》どうしのヨコの愛 こういう見方があり得ます。 つまり いづれにせよ 《タテの愛》は 想定として存続します。 想定ゆえに 要らない。と言えます。つまりそれは それが 《無い神》を神に想定する信仰形態であるとなります。 《無梵無我一如》なる無神論です。しかも タテの愛は やはり想定されています。 タテの愛は ヨコの愛における一人ひとりの主体を あたかも裏づけます。(裏づけなどは 要らないという場合も 《無い神》とのタテの愛において 裏づけられます)。 そうして それがヨコの愛としては 二角関係ですが この二角関係のそれぞれの一角が 異性とのあいだにツイ関係を持ちます。 ツイ関係とは この一角を成す主体どうしでありつつ ツイとしてはあたかも互いに人格が一体となる。こういう人間関係です。配偶者どうしは 人人一如なる姿を呈します。 そのためには けっきょく女にとっても・男にとっても たましいのミサヲをきよく保つという処女性がのぞましくあり この処女性は それとしてのツイ関係を有効に保つために すでに人間関係一般としての二角関係主体がつねにおもんぱかる事柄であるとなるでしょうか。 ミサヲをきよく保つことに――自分からであれ他人の圧力に屈したゆえであれ――失敗したとしても 処女性は なお望まれてよいし のぞましくある。と考えられます。ツイ関係における人人一如のためです。NemurinekoNya様、こんばんは。>「生物学的な要請―――たとえば、生まれてくる子供は、パートナー(男)の子供である確率が高い―――なのか?」そのように思います。現代においては「不安」も限定的ですが、(このように、子どもも産める「完動品」でございます)ということは、徳川家康は、重視した、とかですが。人間はとても未熟で生まれ、成長に時間がかかる動物です。その未熟さは、逆に言えば環境適応能力はずば抜けていると言うことです。環境に適応するとは、環境に左右される可能性も高くなります。その時の状況や環境に適応した価値観で、どうにでも変わる可能性を秘めています。一夫一婦制、一夫多妻制、一妻多夫制と現在でも世界には様々な価値観がありそこで生まれ育った人は、その制度に後ろめたさも無いでしょうし特に疑問を持つものでは無いのではと思います。今の先進国においては、養育と教育において責任の所在がはっきりしていることが大切だと言うこと。安定した環境と愛情が育成に重要だと言うこと。そのような観点から、法においての婚姻が定められているので一夫一婦制においては、互いへの比重が増し比重が高くなるに連れて、絆はより深まるが一つ間違えれば、支配欲や独占欲が強くなってしまう。そのような精神状態において、性欲を汚いものとする価値観が入れば処女信仰が出来上がると思います。自然な欲求と認めず、行為そのものが淫らや淫乱と言うレッテルが貼られると、性は内向に向かいます。オープンであれば問題は無いかと言うと欲に絡む行為ですから、溺れたり引きずられて調和を乱すことが今より増えるでしょう。複雑な社会では、家庭環境が安定してると十分に力を出せる源ですからそう言う精神的安定のため、安定した環境の約束は重要で有ると思います。暴力や腕力が生きる術という社会でなく、協力が社会を支える仕組みが強ければ強いほど、協調性は重視されますからね。女性の社会進出が進むに連れて、女性は男性の所有物から解放されて行ってますから、今後も処女信仰は減っていくと思います。お礼ありがとうございます。>だと思うんですよね~。ここまで行ける男性も少ないが女性も少ない。友達はよしとしても、連れ合いとなるとそこの部分は大切です。永続的な愛に関わるからでしょうか。友人でも出会えるのは貴重です。これからもよろしくです(^ ^)こんばんは、ねこさん。おもしろいです。あまり知識がないので回答は書けないんですけどね。ところで女性による文献は無いのですか。わたしは子どものころいつも母親に「URおタンチン!」と言われていたのですが、あの言葉はいまも使うのかしら。:価値?価値でひとを選んで聖交渉(?)するのですか。「価値のうんぬん」を問うのは、コンカツ中の女性が出身校や年収や身長で男性の価値を決めるのとあまり違わないのではないですか。ひとが目をギラつかせる姿もかわいいんだけど。「惹かれて交わる」のに根拠が必要なのですか。「S極とN極が引かれ合う理由」と同じにしますか。処女が忌まわしいというのは初めて聞きました。>結婚前に聖職者や新郎の父親によって破瓜:聖職者の特権を作りたかったのでしょうか。それとも【新製品】は信用ならないから、といって人に毒見をさせているのですか。さういうナラハシがあったのですか。そのナラハシは重要だったのですか。いつどこで重要ですか。それとも【未成年】と【大人】を区別がごとく、【使えるヤツ】と【謎なヤツ」とに分けられ、【処女】は都合よく見下されていたのですか。あるいは【見下す対象】にされていたのですか。そんなに【見下す対象】が必要だったのですか。それとも【使い込まれたもの】に価値を付けたのですか。以下、木造100年さんという方の言葉を拝借します。うろ覚えでしゃべりますが、木造100年さん、わたしの覚え違いがあれば直してください。「機械は使わずに置いておけば摩耗せず長持ちする。 ときどきオイルを刺してやると、なおよろしい。 一方、人間は頭にしろ体にしろ、 使えば使うほど発達するし、使わなければ衰退する。」こんな話だったと思います。ひとは【発達したもの】【洗練されたもの】が好きですか。【進路がとりあえず決まっているもの】が好きですか。ひとは【人を理解する】のが好きですか。男性も女性もそうなのですか。わたしも話のできない小便臭い男の子は好きではないので幼い娘を面倒くさがる男に文句は言えないんですけれど。カマキリの交尾は、あれはおもしろいと思います。交尾の後、メスがオスを食ってしまうっていう。他にはトンボの交尾がおもしろいと思います。個体Aが狙ったメスの腹の中に個体Bの精子パック(個体B´)が入っていると、個体AはB´をわざわざ取り出して自分Aの精子(個体A´)を後から入れるのだそうです。「目的」が「種の保存」とは限らないようです。今日はもう寝ますからこれでおしまいにします。久しぶりにいろいろと湧きました、愉快です。湧いたもののほとんどを忘れてしまいました。明日起きて、続きを思いついたらまたしゃべります。どうもおじゃましました。PS.目的が手段を正当化することは無理だと思ふ。PPS.外国語にはメス名詞とかオス名詞とかメス動詞とかオス同士とかあるんだけど、あれは、なぜ、どのように生まれたのかしら。No.13を承けます。 聖書にもとづく《愛》は タテ・ヨコのそれですよ。ヨコは 隣り人としてのそれです。 タテの愛とヨコの愛とは ふたつにして一つであるとも説かれます。 ◇ このエチケットは、上から与えられる《規範》ではなく、 / ツイ関係、つまり、横軸の関係として、自然発生的に生まれるべきものだと思います。 ☆ 《自然発生的にうまれるもの》=スサノヲ人間語であると同時に 何らかの物差しのような思惟のかたち=すなわちアマテラス普遍語をも持つと考えます。 日本人のあいだでは 自分たちの情感の共同性なる――おもに第一階の人びとのあいだでのナラハシとしてですが その――情況にそぐう同感のような物差しであろうと考えられます。 あとは 《資料です》と言いながら 自分の回答をも書き込みました。それについてコメントをいただければ さいわいです。 ☆☆ (回答No.13) ~~~~~~~~~~~~ 性・性欲あるいは処女は 愛の関数である。 確かに 性・性欲あるいは処女の扱いが この愛の関数を飛び出てしまうことはあり得ると認めなければならないように思われる。 ただし 愛が 性と性欲と処女との関数であるとは言えない。つまり 愛は つねに――あいまいであるけれども――そのような関数を飛び出ているささやかな場であり場のチカラである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~☆そのように思います。現代においては「不安」も限定的ですが、◇なるほど(ニコニコ)。聖母マリアの例もありますし…。これはどこかで読んだ話なのですが、極まれに「《膜付き》で妊娠!!」ということがあるらしいです。旦那さんはちゃんといてですよ…。夫婦間の夜の営みもあって…。この理由は考えてくださいませ。回答、ありがとうございました。☆もっとも 《〈仏仏一如〉なる人》どうしのヨコの愛 こういう見方があり得ます。◇ですから、結論の先取り!!そして、それ故に☆想定ゆえに 要らない。と言えます。◇です。☆《無梵無我一如》なる無神論です。しかも タテの愛は やはり想定されています。◇bragelonneさんの言葉でいえば、《補助線》でよい、と考えます。☆ そのためには けっきょく女にとっても・男にとっても たましいのミサヲをきよく保つという処女性がのぞましくあり この処女性は それとしてのツイ関係を有効に保つために すでに人間関係一般としての二角関係主体がつねにおもんぱかる事柄であるとなるでしょうか。◇ここでいう《処女性》は、心の清らかさでいいと思います。そして、もし人に聖霊や自性清浄心というものがあるのならば、その清らかさを失うことはないと思いますし、それを損なうことは誰にもできないと考えます。こんばんは。~~~~~~今のそのままの相手を、あるがまま愛せればそれ以上でもそれ以下でもなく十分に幸せです。今繋いでいる手の温もりを感じるだけで十分満たされるなら余計な荷物に悩まされないです。~~~~~~だと思うんですよね~。「わたしが愛し、わたしを愛してくれる」《今のあなた》、で十分だと思うんですよ。いろいろな過去があるから、《今のあなた》に巡り合えたわけですしね~。回答、ありがとうございました。なおも資料です。 ▲ (橋爪大三郎:性愛論) ~~~~~~~~~~~~~ それでは 人間の身体はなぜ 性愛へとさし向けられているのか? 身体はなぜ もうひとつの身体を求めるのか? 個々の人間にとって 他者の身体を求めることは 絶対の条件ではない。少なからぬ宗教が禁欲を課し 生涯を通じて信者(特に聖職者)に一切の性愛行為を禁じている。性愛を拒否して生きることは可能で そうしたとしても人間の条件から外れたことにはならない。しかし 注意しなければならないのは あるひとが性愛を拒否して生きることは そのひとがそもそも性愛と無縁でありうることを意味しないどころか その反対だということだ。性的身体をそなえた存在だからこそ ひとは性愛を拒否できるのである。性愛を拒否するかぎりにおいて そのひとも潜在的にやはり性愛にさし向けられている(他者の身体と性的に関係している)と言える。 この意味で すべてのひとは 性愛へとさし向けられている。そして 性愛(他者の身体を求めること)へとさし向けられている自己のなかに ひとは愛を自覚する。 愛はどのように修飾され 精神化されようと その根本は 他者の身体を求める自分の身体のダイナミズム(欲動)にある。そしてひとは そのダイナミズムがなぜ自分に訪れてくるのか 理解できない(*)。それは身体にそなわっており そこから自分のところ(精神)にまで立ちのぼってくるように感じられる。そのことは どうしようもない与件である。もっともひとは それに支配されるわけではない。それを否定したり それにあらがったり それを無視したりすることも可能である。身体のダイナミズムは それによって押しとどめられ 一定の形態を与えられる。 *(著者註) もし理解してしまえば たぶんそれはダイナ ミズムではなかったことになってしまうであろう。 実はそうした選択と加工と変形のプロセスこそが 愛を形成する。誰かれ構わぬものを愛とよばず このひとでなければという選択を愛とよぶように 身体に根ざしたダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 愛ではない。大脳の精神機能が介在し そのダイナミズムを特定の対象のうえに照準(選択)し その社会のコードに合わせて分節し言語化したときに(加工と変形) それはその社会における愛のかたちとなる。 ひとは 性愛のダイナミズムがいったいどこから訪れるか 知らない。だが それがどこへたどりつくかということならば 知っている。それは その社会の性愛に関するコード すなわち性文化のシステムなのだ。それは こう言い換えてもいい。自分がなぜひとを愛するかは たぶん誰にもわからないだろう。しかし いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている) と。 性愛のダイナミズム(いわゆる性欲)は もちろん 人間が有性生殖をする動物であるという条件に由来している。脳のなかのどこかに そのダイナミズムが組み込まれていると思われる。ひとは 自分にそのダイナミズムがそなわっていると感じる。そして どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる性文化をもっている。《愛》の観念は 西欧社会からわが国にもたらされたが だからといってそれ以前のわが国が 性文化(愛の文化)をまったく欠いていたわけではない。しかしそれは ほかの文明の場合とちがって 明確な社会規範をもたらさなかった。 《愛》という漢字は 中国のものである。日本にはこれが 仏教用語として入ってきた。[・・・] (『性愛論』1995 序章 ひとはなぜ愛するか pp.11-13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 途中で打ち切りましたが 《規範》でなくても ツイ関係におけるエチケットのような決まりがあることがのぞましいと言っているように思われます。すなわち: ▲ (橋爪 同書) ~~~~~~~~~~ サカナをはじめとしてさまざまな動物の行動〔は〕 生得的な反射の連鎖(積み重ね)によってできている。その証拠に[・・・]本物の代わりにそっくりの色をぬった張りぼてのサカナをくねくね踊るように泳がせたりすると 彼らはすっかり間違えてそれに応ずるのである。[・・・] それに対してわれわれは 人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない という感想をもつ。この感想が正しいかどうか いちおう疑ってみる必要があるとしても われわれは《愛》を 〔それよりも〕はるかに複雑なものと想定しよう。 (pp.1-2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 性・性欲あるいは処女は 愛の関数である。 確かに 性・性欲あるいは処女の扱いが この愛の関数を飛び出てしまうことはあり得ると認めなければならないように思われる。 ただし 愛が 性と性欲と処女との関数であるとは言えない。つまり 愛は つねに――あいまいであるけれども――そのような関数を飛び出ているささやかな場であり場のチカラである。No.7を承けます。 資料をかかげるのみですが。 ▲ (アウグスティヌス:われらにとってのつねなる試練)~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。 * 《このようなもの》:とは 端的には 情欲です。一般化して 言えば 《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これら のたぐいを みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分から依り憑いていく心の片向き つまりは その 弱さ》です。 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。 また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。 しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。 (アウグスティヌス:『三位一体論』 中澤宣夫訳 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《処女》というより 《みさを(ミ=霊 + サヲ=アヲ=青)》――むしろその青さやみづみづしさは たましいのでしょうか――としての処女の問題ですね。No.14を承けます。 ☆☆ (回答No.14) ~~~~~~~~~ 聖書にもとづく《愛》は タテ・ヨコのそれですよ。ヨコは 隣り人としてのそれです。 タテの愛とヨコの愛とは ふたつにして一つであるとも説かれます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これで 理論としては すべてであると言ってもよいと考えます。 そして 理論と そのオシエ化されたものと 理論の応用でもある・オシエの実践 これらの三つのもののあいだには しかるべき区別があります。 オシエ化を経たあとの段階で何が起こるかは もう理論もその面倒を見切れません。 いわゆるキリスト教の教会や信者たちの繰り広げた歴史には――責任を回避するという姿勢になるのではなく―― その人たちの自由意志による思想と行為ですから 他人の手に負えないところがあると明らかにしておかざるを得ないと考えます。 ◇ 隣人愛を口に説きながら、神を媒介にしなければ、横の愛は出てこないのではないですか? ☆ これは 当たっているところがあります。なぜなら 人間どうしのヨコのつながりとしての隣人愛は 煮詰めた理論としては 神からの愛――つまりは 人びとそれぞれにやどるアートマンなる霊のチカラ――無しには 成らない。というのですから。 ただし問題は この神の愛が――ブッダターなる慈悲が―― 煮詰めた理論としては 人間には分からないというところにもあります。つねにナゾであるというところです。 ということは 人間が意識して意欲としてそして意志行為としておこなうのは 人間の能力と努力とによるヱクトルとしての愛です。愛情と憎悪などなどを含んだ向きとチカラとから成る二角関係であり じつはほかに愛なる動態はあり得ません。あっても 人間には分かりません。 ということは 神については 有る神か無い神かは どうでもよく 有る神の名がどうであろうとやはりどうでもよく 神の愛に裏付けられた隣人愛が出来たかどうか これも じつは 人間には最終的な判定としては分からない。 ということは 取りも直さず すべての人が わが隣り人である。となります。 文明もバルバロイも関係ありません。 あとは 生活共同ないし共生が 広く愛の思いでありおこないである。となります。それだけのことです。これが クリスチャンの行き方です。 欧米人がいかに言おうと ローマ教会が何をほざこうと 関係ありません。神は すでにみづからを揚棄しましたから。 このようなふつうの愛――二角関係――のもとに 男女のツイ関係も活きています。 [性・性愛・処女論なるツイ関係]= f (二角関係なる愛) 二角関係なる愛 ≠ f (ツイ関係)お礼ありがとうございます。肉欲に溺れ、やりっぱなしの外道道を歩かないための戒めでしょうかね。戒めは囚われとなれば、欲求はさらに増加することを人間はそろそろ学ぶ時かと思います。時代が古く教えが長く根付いてるところほど本来の教えから外れるものと知り、我身を見直す。教えを曲解しないための自衛手段が、機能している所はほとんど見当たりません。戒めに縛られるも、戒めを解くのも己自身。自分を貶めるも蔑むも、救われるも自分の成せる技。当たり前の正しさより、今に生きる真摯な取り組みこそが好転の順当な道であり、処女信仰などにはまらないですみます。今のそのままの相手を、あるがまま愛せればそれ以上でもそれ以下でもなく十分に幸せです。今繋いでいる手の温もりを感じるだけで十分満たされるなら余計な荷物に悩まされないです。まだまだ長い道のりですね。それなりに。>これは文化的なものなのか、ではなく、生物学的な要請―――たとえば、生まれてくる子供は、パートナー(男)の子供である確率が高い―――なのか?私は「処女性」について、ほぼすべて文化的な要請であると考えています。そもそも、人間の性を考えると、明らかに文化的宗教的差異を見ることができます。その差異とは・一神教が歴史的に普及している地域・一神教以外の歴史が長い地域(西洋の植民地支配以前は独自の宗教観があった地域)・植民地支配の影響を受けていない地域に分けることができます。日本は三番目の「植民地支配の影響を受けなかった地域」であり、そのため神道や仏教の習合、各地独自の独特の風習(たとえば沖縄の男子禁制のウタキとか、奇祭として有名な男根祭りとか)があげられます。中国や東南アジア(インド以東)もある程度、影響を受けなかった(受けても軽微)と言っていいでしょう。特に中国の儒教は重要でしょう。次に明らかに文化的な特性を持っているのは、ユダヤ・キリスト・イスラムというエホバ神を核とする一神教の地域です。この地域はもともと遊牧地域であり、牧畜を前提とした文化的影響が見て取れます。最後は、西洋の(つまり一神教の)植民地支配以前は独自の宗教があった地域です。南米やアフリカなどはキリスト教やイスラム教などが普及しているとはいえ、独自の宗教感も残っています。さて、処女性を考えるときに私が思い浮かぶのは、割礼と宦官です。いずれにしても牧畜文化の考え方を表しているといえます。放牧文化では優秀な種を持たない限り、去勢されたり屠殺されたりして、子孫を残すことができません。つまり「人間も家畜同様、主人の損得勘定によって扱われ方が決まる」というのが文化の基礎になっているのです。日本人にはちょっと信じられませんが、先進国は別にしてもヨーロッパからアラブの牧畜文化の国では今でも「女の子は、嫁にやるときにお金になる」と考えられています。シリアなどで児童婚が問題になっていますが、その根底には「家畜と同様、娘を売れば利益が得られる」という牧畜的な考え(生き物を扱い、出産で増えることが利益を生む)があったわけです。そのような視点から見れば、領主や聖職者がもっている「初夜権」は自分が囲っている(自分の領地にいる)女性を、特定の男性に譲り、その男性の妻となった女性が子供を生み育てて、家系が繁栄することに対する税というか利益の前払いであり、初夜権は事実上、その女性を娶る男性が、領主に金を払うことで買い取っていたわけですから、家畜のメスを売り払って利益を得るのと同等の行為であったと言えます。牧畜文化においての処女の重要性は、お金に換えることができる資源(一人に1回しかない)として希少性があったのです。また、牧畜文化は一神教文化でもあります。一神教の特徴として「禁欲」が挙げられます。モーゼの十戒は一神教すべてで有効な戒律であるといえます。この中で「姦淫」は神との約束を破ることになります。逆をいえば、中世の魔女は神に背いた悪徳そのものですから、その魔女が神との約束を守って処女(姦淫をしていない)ではまずいわけです。ですから、魔女狩りは「神との約束である戒律を破ったもの」非処女でなければならなかったわけです。ジャンヌ・ダルクの例も裁判において「悪魔を呼び出し、悪魔と契約と交渉(つまり性行為)を行った」ことが「魔女である証拠」とされたようですから、処女性はむしろ善と見られていたと思われます。また、処女を善とすることは、婚前交渉を減らすことになりますので「初夜権」を担保するのに十分な理由にもなります。牧畜文化からくる処女の希少性(金銭価値)と一神教における禁欲の発露(姦淫の禁止)が、西洋での「処女の価値」そのものであるといえるでしょう。では、同じように牧畜文化を持っていたアジアはどのようなものかというと、少し複雑であるといえます。まず、アジアにおいて「遊牧民族」というのは、純粋な漢民族ではなく元とも称されたモンゴル系の人々であり、明を後の清も同じようにモンゴル系であったといえます。中国の歴史は、農耕民族である漢族と騎馬・放牧文化であるモンゴル系が中原の支配権を争ってきた歴史であるともいえるでしょう。このときに漢族は春秋時代には孔子が出現し、体系としての儒教をまとめています。当然ながらそれ以前から儒教的な風習はあったでしょう。そして儒教は君主に対しては忠、父に対しては孝と、主君に忠義を尽くしながら先祖からの血筋を絶やさないのが孝徳である、という考え方ができてきました。これの場合の女性の役割は「次の世代の子供を生み、血筋を絶やさない」ということにつきます。つまり子供を産めない女性はポンコツであり、その重要性は処女性よりも重要であったと言えます。ということは「うちの娘はポンコツであるかないか」を場合によっては確かめる必要性もあったのでしょう。試し腹というのは「妊娠できる女性でなければ無価値」という考え方、つまりは「血筋を絶やしてはならない」という価値観から出発しているといえます。そして、アジアには一神教の十戒のような禁忌はありませんでしたから、試し腹でもなんでもありえたといえるのでしょう。さて、日本の話になりますが、日本は牧畜文化ということに関しては、非常にナイーブなところを見せます。たとえば大宝律令で律令制を中国から輸入したはずなのに、科挙と共に宦官も受け入れていません。また、元寇の際には牡馬の去勢も知られていたはずですし、遅くとも種子島以降には西洋人が去勢の知識をもたらしたはずなのに、それらを行うことをしていません。日本の馬が去勢されるようになったのは、明治以降のことであり、日本に馬車が無かったのは「去勢されない雄馬の凶暴性」を制御できなかったからだとも言われいます。日本は性については非常におおらかであり、性そのものに神秘性・宗教性を見出していた、ともいえます。たとえば、江戸時代までの漁村では、妊娠している女性が神にささげた飯椀を蹴り倒し、遠くに飛べば飛ぶほどその年は豊漁である、と考えられたという祭りもありましたし、今でも一切表に出ませんが、神事=村総出の乱交パーティだった地域もあったと言われています。これだけでなく夜這いで妊娠した娘は、夜這いした男性の中から伴侶を指名することができ、生まれた子供が指名された男性の子供でなくても「村の子」ということで、集落を上げて大切に育てられた、とも言われています。つまり男女の性交渉そのものが、集落における摩擦の軽減に一役買っていた、という文化であるといえます。実はこれとほぼ同じ文化はエスキモー文化に見ることができますし、ネイティブアメリカンの一部や南米の原住民の一部などにも見られる風習であったと言われています。このような「性交渉により集団の摩擦を軽減する」という文化からすれば、処女は「性交渉への不参加」であり「集落への帰属意識の低下」を招きます。つまり、このような文化であれば処女は何の価値もない、ということになります。ちなみに江戸時代までの日本では処女はおぼこ:未通娘とも呼ばれており、どちらかと言うと蔑称であったといえます。古来の日本では処女の価値は無かった(というより処女と言う言葉自体が明治以降の西洋文化の翻訳語)といえます。このように、各地域の特性・風習によって人々の役割やその存在価値も変わっていくといえます。ですので、各地域で「処女性」の価値に違いがあるのは当然であり、またそれは生物学的な要求と言うよりは、社会学的な要求であったといえます。こんにちは。~~~~~~そのような精神状態において、性欲を汚いものとする価値観が入れば処女信仰が出来上がると思います。自然な欲求と認めず、行為そのものが淫らや淫乱と言うレッテルが貼られると、性は内向に向かいます。オープンであれば問題は無いかと言うと欲に絡む行為ですから、溺れたり引きずられて調和を乱すことが今より増えるでしょう。~~~~~~~を読みまして、ワーグナーの『タンホイザー』第二幕(膜?)を思い浮かべました。中世の騎士・タンホイザーが騎士や淑女の前でヴェーヌス(ヴィーナス・アフロディーテ)、性愛を讃えるような歌を高らかに歌うんですよ。そして、「性愛の歓びを知らない哀れな奴らめ。一度、ヴェーヌス・ベルグ(ソープランド???)に行ってから、愛を語りやがれ!!」といった内容のことを口にする。すると、騎士たちから「こいつ、ソープに行ったぞ!!みんな逃げろ!!」と叫ぶ。また、淑女たちは あっち行って! 近寄らないで! (エンガチョ!!)で、タンホイザーは追放。そして、贖罪のためにローマへと向かう。でも、法王も許してくれない。「枯れ木(の杖)から芽が出たら許してやる」という…。どうやら、キリスト教圏では、女性だけではなく、男の《貞操・みさお》も大切なようです。しかし、「(性愛とタンホイザーを)そこまであからさまに汚物扱いしなくても…」と、わたしは思うのですが…。回答、ありがとうございました。☆☆ これは 当たっているところがあります。なぜなら 人間どうしのヨコのつながりとしての隣人愛は 煮詰めた理論としては 神からの愛――つまりは 人びとそれぞれにやどるアートマンなる霊のチカラ――無しには 成らない。というのですから。◇はい。結論の先取りになりますが、「だ・か・ら、もはや縦の愛は要らない。横の愛だけでいいはずだ」です。《仏仏》、《唯仏与仏》でいいと思います。 ―――法華経や日蓮系の人たちの言う《唯仏与仏》じゃないですよ~。「ただ仏と(与)仏のみ」です―――わたしは、そう考えます。回答、ありがとうございました。様々な文化的視点からの分析、ありがとうございます。~~~~~さて、処女性を考えるときに私が思い浮かぶのは、割礼と宦官です。いずれにしても牧畜文化の考え方を表しているといえます。放牧文化では優秀な種を持たない限り、去勢されたり屠殺されたりして、子孫を残すことができません。つまり「人間も家畜同様、主人の損得勘定によって扱われ方が決まる」というのが文化の基礎になっているのです。~~~~~宦官は牧畜文化と密接な関係がある、と言われますよね。また、原則として、長子相続ではなく、我が子を互いに競わせ、子供の実力や能力によって、親のあとを継ぐ、ということも牧畜文化の特徴の一つとされているようですね。清朝は、漢民族の長子相続を最後まで受け入れず、こうした実力本位制を採用した、といわれます。たとえ皇帝になったとしても、その実力がないとみなされると、毒殺をされたり、非業な最期を迎えることになる…。~~~~~○また、処女を善とすることは、婚前交渉を減らすことになりますので「初夜権」を担保するのに十分な理由にもなります。○牧畜文化からくる処女の希少性(金銭価値)と一神教における禁欲の発露(姦淫の禁止)が、西洋での「処女の価値」そのものであるといえるでしょう。~~~~~なるほど、なるほど。☆実はこれとほぼ同じ文化はエスキモー文化に見ることができますし、ネイティブアメリカンの一部や南米の原住民の一部などにも見られる風習であったと言われています。◇ネイティブ・アメリカンは、基本的に母系社会ですしね。ラコタ・スー族などでは、奥さんが気に入らないと、旦那さんはすぐに追い出されたそうですよ。また、インディアンの多くの部族では、《ベルダージュ》と呼ばれる第三の性が認められ、同性愛者はその部族の中で子供の名付け親になるなど、重要な役割をはたしたと言います。日本も、明治以前は、同性愛は半ば公然に行なわれていましたが、これはどちらかというと、少年愛に近かったらしいので、これはまた別なのでしょうね。こうした性に対する差別意識をなくすために、日本人の多くが《ベルダーシュ》という文化、制度をもっと知るべきなのでしょうね。☆古来の日本では処女の価値は無かった(というより処女と言う言葉自体が明治以降の西洋文化の翻訳語)といえます。◇処女の価値は無かったとは言えないと思いますが、今日考えられているように処女や処女性は重視されなかったのは、事実なのでしょうね。処女や処女性の株が上がったのは、明治以降のことで、極めて人為的で、政策的なものだっと思います。回答、ありがとうございました。「私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。」という文に過敏に反応するのは、わたしの勘ぐりすぎなのかもしれませんが、グノーシス的な匂いを感じてしまいます。(ネオ)プラティニズムの方なのかもしれませんが…。たぶん、わたしの考えすぎなのでしょう。☆☆ 《処女》というより 《みさを(ミ=霊 + サヲ=アヲ=青)》――むしろその青さやみづみづしさは たましいのでしょうか――としての処女の問題ですね。◇これは面白い考えですね。日本の文化、日本人の心性には、未熟なものに対する愛おしみや優しい眼差しがありますので。現代用語で言えば、《萌え》となるのでしょうか。なお、ここでの《萌え》は、青葉が一斉に萌え出すような《萌え》です。回答、ありがとうございました。処女の価値すこし際どい話になるのですけれども、処女・virginity、処女であることというのは、いかなる価値なのでしょうか?これは文化的なものなのか、ではなく、生物学的な要請―――たとえば、生まれてくる子供は、パートナー(男)の子供である確率が高い―――なのか?古い時代のヨーロッパには、処女は忌まわしいものと考えられ、結婚前に聖職者や新郎の父親によって破瓜(はか)されてから、新婦さんは新郎と初夜を迎えるといった風習を持っていた地域が数多く存在しています。 ―――こうした風習がヨーロッパの封建領主の有した《初夜権》になったとする説があります。これについては諸説あるのですが…。ロシアでは、19世紀くらいまで、封建領主は初夜権を有していた。―――ヨーロッパには、処女は忌まわしい魔的な存在であるという考え方が中世まで残っておりまして、女性は処女のままで処刑されることはなく、処刑前に牢の門番などによって破瓜されてから処刑された。――映画『ジャンヌ・ダルク』にもこのシーンが出ていたはず。―――これについても異説がありまして、処女は誘惑に弱いのだから、処刑後、悪魔に誘惑されることなく天国へ行けるようにと、温情からそうしたのだとする考え方もありますが…。ヨーロッパで処女や処女性を重視するようになったのは、キリスト教の影響(・・?また、どこかは忘れたのですが、古代オリエント社会の何処かに、処女は結婚できないとされ、非処女であることが結婚できるための必要条件であった地域があったらしいんですよ。これが古代オリエント社会にあった《聖婚》と関係しているのかどうかは記憶が定かでないのでハッキリしたことはいえないのですが、ちょっと売春的なことをさせられていたらしいんですよね。 ―――これは女性の(宗教的な)義務、社会的奉仕だったたらしい―――で、買い手が付かないと、その女性は結婚できないと…。性に対して極めておおらかな日本では、そもそも処女性などは問題にはならないし…。藤原鎌足は、天智天皇のお妃(采女)の一人である安見児(やすみこ)を下賜され、 われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすとふ 安見児得たり「オレは 安見児を 天皇からもらったもんね。スゲェ~だろう、羨ましいだろう」という喜びの歌を読んでいるほど。 ―――この時、既に、安見児さんのお腹の中には赤ちゃんがいたらしく、これが藤原氏に繋がる藤原不比等だとか、そうではないとか…―――平清盛も、どうやら、これと同じパターンらしい。これは、古代日本の結婚のスタイルがいわゆる《妻問い婚》で、父親の財産は男子ではなく女子が受け継ぐからなのかもしれませんが…。江戸時代は、女性の再婚は当たり前のことでしたし―――大都会・江戸の町は、人口比における女性の割合が低く、慢性的なお嫁さん不足状態であった―――、川柳などを見ると、未婚女性も、結構、性の悦びを謳歌していたらしい。女性や男に性的な潔癖を求めるようになったのは明治以降のことで、ヨーロッパの列強に日本が近代国家であることを印象付ける上での政策であった、とする説もあるようで、現代の日本は性(道徳)が乱れているといわれますが、実は元の状態に戻っただけなのかもしれない。お隣の韓国では、嫁入り前に親族などが嫁入りの娘を妊娠させ、妊娠可能であることを証明してから、そのお腹の子供ともども嫁がせるという《試し腹》という風習がありましたし、処女であることや童貞であることの価値や美徳とは、如何なるものなのか、さっぱり分からないんですよ。ジャイナ教のように極めて厳格な禁欲主義でことさら性的潔癖さを重視するというのならば分からないでもないのですが、何故、性的潔癖さを重視するのでしょうか?特に女性に対してですが…。ユダヤ・キリスト教的な話との関わりあいでいいますと、ユダヤ人の条件は、 1 ユダヤ教を信仰する者 2 母親がユダヤ人であることのうちのいずれかであって、父系社会だから女性の性的潔癖さや処女性を求めるというような単純な構図は成立しないようなんですよね。かなりキワドイ内容なのですが、皆様のお考えを教えてくださいませ<m(__)m>様々な角度、視点からの回答をヨロシクお願いします<m(__)m>こんばんはです。~~~~~~>結婚前に聖職者や新郎の父親によって破瓜:聖職者の特権を作りたかったのでしょうか。~~~~~~これは血を嫌ったためだと思います。血に対する漠然とした恐れ、これがあると思うんですよ。この他にも、器具を使って破瓜したり、古代ローマでは、神様の像の前に木製の♂があって、そこで女性がまたがって…ということも行なわれていたようです。わたしも血が苦手なので、こうした気持ちはよく分かります。ですが、おそらくそんな単純なものではないと思います。血には不思議な霊力があると考え、その霊力を恐れたのではないでしょうか。遊牧民の中には、家畜を解体するとき、その血を一滴も大地に垂らさないようにするという離れ業をする部族がいくつも存在したりします。たぶん、血が大地に落ちると、大地が呪われる、といった原始的心性がこの背景にあるのではないでしょうか。わたしが聞いたところによりますと、大奥では、御典医がメスなどで切開して、それから将軍と…、いうことです。これは、呪術的というよりも、将軍さまに心理的ショックを与えないようにとの配慮から行なわれたそうです。☆わたしは子どものころいつも母親に「URおタンチン!」と言われていたのですが、あの言葉はいまも使うのかしら。◇オタンチンは、「短い♂」をさす遊廓の隠語とされています。 ───嫌なお客を指し示す言葉だったらしい───女性には、ちょっと使えないのではないか、という気持ちがするのですが、ですが、岐阜県の方言には「バカモン」というくらいの意味があるようですね。☆それとも【未成年】と【大人】を区別がごとく、【使えるヤツ】と【謎なヤツ」とに分けられ、【処女】は都合よく見下されていたのですか。◇どうでしょうか。見下すということはなかったとは思うんですが。でも、わかんないです。今の若い女の子のように、ある年齢(たぶん18歳くらい)まで処女であると、「えっ、まだ処女なの!?」と驚かれ、「早く××」なんてことはあったのかもしれませんね。~~~~~~~「機械は使わずに置いておけば摩耗せず長持ちする。 ときどきオイルを刺してやると、なおよろしい。 一方、人間は頭にしろ体にしろ、 使えば使うほど発達するし、使わなければ衰退する。」~~~~~~~これは、また、きわどい話ですね。使わなければ、衰退しますね。性的能力も同じことだと思います。☆ひとは【発達したもの】【洗練されたもの】が好きですか。◇扱いきれないほど【発達したもの】は、嫌われるんじゃないでしょうか。わたしはガラ携を使っているのですが、わたしはこのガラ携の機能の1/10も使っていません。もっとシンプルなものの、使い慣れたものの方が好きです。FOMAではなく、movaの方が使いやすかった。わたしはmova廃止の3ヶ月前までmovaを使っておりました。新しいものや発達した物が必ずしも使いやすいとは、限らない!!また、愛着を感じられるものでもない、と考えやす。☆ひとは【人を理解する】のが好きですか。◇と思います。そして、同時に他人(ひと)から理解されたい、と思っているのではないでしょうか。☆わたしも話のできない小便臭い男の子は好きではないので幼い娘を面倒くさがる男に文句は言えないんですけれど。◇性に関しても、教育する楽しみを挙げる人もいるようですね。☆カマキリの交尾は、あれはおもしろいと思います。◇カマキリのオスも食べられては大変と対策を練っているようで、脱皮直後で動けない♀にチョメチョメなんてことをするそうですよ。また、運良く逃げられるオスもいるとかですよ。確か、ジョロウグモもオスは食べられる可能性があるので、メスが食事中の時とか、脱皮直後で動けない状態の時に、交尾をしようとするオスがいるという話を聞いたことがあります。☆「目的」が「種の保存」とは限らないようです。◇だと思います。ヒトの性や性交はもっと奥深いものがある、と思います。☆外国語にはメス名詞とかオス名詞とかメス動詞とかオス同士とかあるんだけど、あれは、なぜ、どのように生まれたのかしら。◇これは分からないです。名詞に性があると、その言語が特に便利になるとは考えられないので。英語や日本語、中国語のように、名詞に性を有しない言語が構造的に複雑になるというわけでもないですし、何故なんでしょうね。事物には霊や精霊などが宿っているという原始的心性、アニミズムが関係しているのでしょうか。こういうことは、bragelonneさんが詳しいので、お答えが寄せられるといいですね。回答、ありがとうございました。聖書の愛は。で・す・が、いわゆるキリスト教、キリスト教徒の愛は、縦の愛でしょう。隣人愛を口に説きながら、神を媒介にしなければ、横の愛は出てこないのではないですか?だ・か・ら、キリスト教とキリスト教の神を信じない人とは、隣人になれない。悪い言葉をあえて使うならば、キリスト教を信じない人たち、《バルバロイ》は、隣人ではない。そして、《バルバロイ》とは横の関係を作ることができない。「これはおかしい」と、わたしは言いたいのですよ。そして、こうした《文明人》⇔《バルバロイ》という構図は、未だに根強く欧米人の根底に残っているように思います。特にアメリカですがね。たとえば、グローバリズムや民主主義の押し付けなどなど…。その淵源が隣人愛であるにしろ、だから、博愛と声高に叫ばなかったのではないですか。隣人愛という言葉はあったにしろ、これが全く機能していなかったから、平等や博愛を説かなければなかったのですか。こういうことを言いたかったわけです。~~~~~~《愛》の観念は 西欧社会からわが国にもたらされたが だからといってそれ以前のわが国が 性文化(愛の文化)をまったく欠いていたわけではない。しかしそれは ほかの文明の場合とちがって 明確な社会規範をもたらさなかった。~~~~~~という記述に反発したくなりますね~。ここでいう「他の文明」とは、ヨーロッパ(キリスト教)文明のことに過ぎないでしょう。ヨーロッパにだけが文明でない。また、これは、西欧からもたらされた、キリスト教に基づく《愛》という観念、概念が日本にはなかったということに過ぎません。キリスト教のいう《愛》だけが愛ではあるまいし、また、キリスト教の愛は縦・上下の愛です。キリスト教・ヨーロッパ型の愛には、基本的に、横の愛が欠けているではないか!!でですが、☆☆ 途中で打ち切りましたが 《規範》でなくても ツイ関係におけるエチケットのような決まりがあることがのぞましいと言っているように思われます。◇このエチケットは、上から与えられる《規範》ではなく、ツイ関係、つまり、横軸の関係として、自然発生的に生まれるべきものだと思います。回答、ありがとうございました。
婚前交渉「受け入れられる」4割満たず 広州の若者は婚前交渉をどう考えているのか。調査によると、婚前交渉を「受け入れられる」という人は36.3%、「受けられられない」という人は20.1%、「状況による」という人は43.6%だった。 宗教の違いって日本だと普段あんまり気にすることってないですが、結婚を考えるくらいの間柄だとやはり重要な課題となってきますよね。教えていただいたエピソードにはかなり共感しながら読みました。 彼と結ばれたいという気持ちはもちろんまだありますが、それとともに今は「これま� ということで、実際のアンケ—ト調査からも、映画屋ドラマに見られる文化的な背景からも、親世代にとってお泊まりデートは許されないこと・恥じるべきことであることが分かります。次の日家に帰ったら「男の人と二人で泊まりは辞めなさい」と言われました。転職とか引っ越しとかお金もかかって大変そうに思われますが、寮付きの会社とか、リゾートバイトとかだと、わりと身ひとつで転がり込んで働けるところはあります。信じていた人に見捨てられ、寂しさを紛らわすように刺激的なゲームやネットの掲示板や動画を見まくり、一食にご飯を2合食べるほどの過食も止まらず、コンビニの袋だらけでゴミ屋敷寸前・・・。「両性の合意のみに基いて成立」するので、親が反対しようと何しようと、法律的には一切関係ない!ってことです。まだ20代なのが信じられないくらい色んな経験をしていて知識も豊富なのですが、何よりも「良い未来」を信じさせてくれる不思議な説得力があります。いろいろと恋の燃え上がるイベントを経て、二人は結ばれ同棲を始め、みち子は妊娠しますが、真の兄よって中絶させられてしまいます。私の場合は、親がめちゃくちゃ厳しくて高校のときは門限が18時(! 外国人の彼氏・彼女がいる方の中には、婚前交渉がokか否か悩む方もいらっしゃることでしょう。そこで、参考として世界の国々の婚前交渉の実態を調査いたしました。海外の方との結婚を視野に入れている方は、ご参照頂ければ幸いです。 また、日本では雑誌などで、婚活について特集されていることも多いが、ヨーロッパでは見かけない。 日本のように、「婚活パーティーで異性の心を掴むコツ」「恋人を結婚に踏み切らせる方法」などの結婚を意識したうたい文句のある雑誌を見かけることはあまりなく、恋愛観も異なるようだ。 1973年から40年にわたって日本人の物の見方や考え方を調査した「日本人の意識」調査によると、お泊まりデートすなわち婚前交渉の考え方には40年間で大きな変化が見ら … ◇ (No.17お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ 結論の先取りになりますが、 「だ・か・ら、もはや縦の愛は要らない。横の愛だけでいいはずだ」 です。 《仏仏》、《唯仏与仏》でいいと思います。 ―――法華経や日蓮系の人たちの言う《唯仏与仏》じゃないですよ~。「ただ仏と(与)仏のみ」です――― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《仏仏一如》は タテの愛ですよ。梵我一如や霊霊一如と同じく。 もっとも 《〈仏仏一如〉なる人》どうしのヨコの愛 こういう見方があり得ます。 つまり いづれにせよ 《タテの愛》は 想定として存続します。 想定ゆえに 要らない。と言えます。つまりそれは それが 《無い神》を神に想定する信仰形態であるとなります。 《無梵無我一如》なる無神論です。しかも タテの愛は やはり想定されています。 タテの愛は ヨコの愛における一人ひとりの主体を あたかも裏づけます。(裏づけなどは 要らないという場合も 《無い神》とのタテの愛において 裏づけられます)。 そうして それがヨコの愛としては 二角関係ですが この二角関係のそれぞれの一角が 異性とのあいだにツイ関係を持ちます。 ツイ関係とは この一角を成す主体どうしでありつつ ツイとしてはあたかも互いに人格が一体となる。こういう人間関係です。配偶者どうしは 人人一如なる姿を呈します。 そのためには けっきょく女にとっても・男にとっても たましいのミサヲをきよく保つという処女性がのぞましくあり この処女性は それとしてのツイ関係を有効に保つために すでに人間関係一般としての二角関係主体がつねにおもんぱかる事柄であるとなるでしょうか。 ミサヲをきよく保つことに――自分からであれ他人の圧力に屈したゆえであれ――失敗したとしても 処女性は なお望まれてよいし のぞましくある。と考えられます。ツイ関係における人人一如のためです。NemurinekoNya様、こんばんは。>「生物学的な要請―――たとえば、生まれてくる子供は、パートナー(男)の子供である確率が高い―――なのか?」そのように思います。現代においては「不安」も限定的ですが、(このように、子どもも産める「完動品」でございます)ということは、徳川家康は、重視した、とかですが。人間はとても未熟で生まれ、成長に時間がかかる動物です。その未熟さは、逆に言えば環境適応能力はずば抜けていると言うことです。環境に適応するとは、環境に左右される可能性も高くなります。その時の状況や環境に適応した価値観で、どうにでも変わる可能性を秘めています。一夫一婦制、一夫多妻制、一妻多夫制と現在でも世界には様々な価値観がありそこで生まれ育った人は、その制度に後ろめたさも無いでしょうし特に疑問を持つものでは無いのではと思います。今の先進国においては、養育と教育において責任の所在がはっきりしていることが大切だと言うこと。安定した環境と愛情が育成に重要だと言うこと。そのような観点から、法においての婚姻が定められているので一夫一婦制においては、互いへの比重が増し比重が高くなるに連れて、絆はより深まるが一つ間違えれば、支配欲や独占欲が強くなってしまう。そのような精神状態において、性欲を汚いものとする価値観が入れば処女信仰が出来上がると思います。自然な欲求と認めず、行為そのものが淫らや淫乱と言うレッテルが貼られると、性は内向に向かいます。オープンであれば問題は無いかと言うと欲に絡む行為ですから、溺れたり引きずられて調和を乱すことが今より増えるでしょう。複雑な社会では、家庭環境が安定してると十分に力を出せる源ですからそう言う精神的安定のため、安定した環境の約束は重要で有ると思います。暴力や腕力が生きる術という社会でなく、協力が社会を支える仕組みが強ければ強いほど、協調性は重視されますからね。女性の社会進出が進むに連れて、女性は男性の所有物から解放されて行ってますから、今後も処女信仰は減っていくと思います。お礼ありがとうございます。>だと思うんですよね~。ここまで行ける男性も少ないが女性も少ない。友達はよしとしても、連れ合いとなるとそこの部分は大切です。永続的な愛に関わるからでしょうか。友人でも出会えるのは貴重です。これからもよろしくです(^ ^)こんばんは、ねこさん。おもしろいです。あまり知識がないので回答は書けないんですけどね。ところで女性による文献は無いのですか。わたしは子どものころいつも母親に「URおタンチン!」と言われていたのですが、あの言葉はいまも使うのかしら。:価値?価値でひとを選んで聖交渉(?)するのですか。「価値のうんぬん」を問うのは、コンカツ中の女性が出身校や年収や身長で男性の価値を決めるのとあまり違わないのではないですか。ひとが目をギラつかせる姿もかわいいんだけど。「惹かれて交わる」のに根拠が必要なのですか。「S極とN極が引かれ合う理由」と同じにしますか。処女が忌まわしいというのは初めて聞きました。>結婚前に聖職者や新郎の父親によって破瓜:聖職者の特権を作りたかったのでしょうか。それとも【新製品】は信用ならないから、といって人に毒見をさせているのですか。さういうナラハシがあったのですか。そのナラハシは重要だったのですか。いつどこで重要ですか。それとも【未成年】と【大人】を区別がごとく、【使えるヤツ】と【謎なヤツ」とに分けられ、【処女】は都合よく見下されていたのですか。あるいは【見下す対象】にされていたのですか。そんなに【見下す対象】が必要だったのですか。それとも【使い込まれたもの】に価値を付けたのですか。以下、木造100年さんという方の言葉を拝借します。うろ覚えでしゃべりますが、木造100年さん、わたしの覚え違いがあれば直してください。「機械は使わずに置いておけば摩耗せず長持ちする。 ときどきオイルを刺してやると、なおよろしい。 一方、人間は頭にしろ体にしろ、 使えば使うほど発達するし、使わなければ衰退する。」こんな話だったと思います。ひとは【発達したもの】【洗練されたもの】が好きですか。【進路がとりあえず決まっているもの】が好きですか。ひとは【人を理解する】のが好きですか。男性も女性もそうなのですか。わたしも話のできない小便臭い男の子は好きではないので幼い娘を面倒くさがる男に文句は言えないんですけれど。カマキリの交尾は、あれはおもしろいと思います。交尾の後、メスがオスを食ってしまうっていう。他にはトンボの交尾がおもしろいと思います。個体Aが狙ったメスの腹の中に個体Bの精子パック(個体B´)が入っていると、個体AはB´をわざわざ取り出して自分Aの精子(個体A´)を後から入れるのだそうです。「目的」が「種の保存」とは限らないようです。今日はもう寝ますからこれでおしまいにします。久しぶりにいろいろと湧きました、愉快です。湧いたもののほとんどを忘れてしまいました。明日起きて、続きを思いついたらまたしゃべります。どうもおじゃましました。PS.目的が手段を正当化することは無理だと思ふ。PPS.外国語にはメス名詞とかオス名詞とかメス動詞とかオス同士とかあるんだけど、あれは、なぜ、どのように生まれたのかしら。No.13を承けます。 聖書にもとづく《愛》は タテ・ヨコのそれですよ。ヨコは 隣り人としてのそれです。 タテの愛とヨコの愛とは ふたつにして一つであるとも説かれます。 ◇ このエチケットは、上から与えられる《規範》ではなく、 / ツイ関係、つまり、横軸の関係として、自然発生的に生まれるべきものだと思います。 ☆ 《自然発生的にうまれるもの》=スサノヲ人間語であると同時に 何らかの物差しのような思惟のかたち=すなわちアマテラス普遍語をも持つと考えます。 日本人のあいだでは 自分たちの情感の共同性なる――おもに第一階の人びとのあいだでのナラハシとしてですが その――情況にそぐう同感のような物差しであろうと考えられます。 あとは 《資料です》と言いながら 自分の回答をも書き込みました。それについてコメントをいただければ さいわいです。 ☆☆ (回答No.13) ~~~~~~~~~~~~ 性・性欲あるいは処女は 愛の関数である。 確かに 性・性欲あるいは処女の扱いが この愛の関数を飛び出てしまうことはあり得ると認めなければならないように思われる。 ただし 愛が 性と性欲と処女との関数であるとは言えない。つまり 愛は つねに――あいまいであるけれども――そのような関数を飛び出ているささやかな場であり場のチカラである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~☆そのように思います。現代においては「不安」も限定的ですが、◇なるほど(ニコニコ)。聖母マリアの例もありますし…。これはどこかで読んだ話なのですが、極まれに「《膜付き》で妊娠!!」ということがあるらしいです。旦那さんはちゃんといてですよ…。夫婦間の夜の営みもあって…。この理由は考えてくださいませ。回答、ありがとうございました。☆もっとも 《〈仏仏一如〉なる人》どうしのヨコの愛 こういう見方があり得ます。◇ですから、結論の先取り!!そして、それ故に☆想定ゆえに 要らない。と言えます。◇です。☆《無梵無我一如》なる無神論です。しかも タテの愛は やはり想定されています。◇bragelonneさんの言葉でいえば、《補助線》でよい、と考えます。☆ そのためには けっきょく女にとっても・男にとっても たましいのミサヲをきよく保つという処女性がのぞましくあり この処女性は それとしてのツイ関係を有効に保つために すでに人間関係一般としての二角関係主体がつねにおもんぱかる事柄であるとなるでしょうか。◇ここでいう《処女性》は、心の清らかさでいいと思います。そして、もし人に聖霊や自性清浄心というものがあるのならば、その清らかさを失うことはないと思いますし、それを損なうことは誰にもできないと考えます。こんばんは。~~~~~~今のそのままの相手を、あるがまま愛せればそれ以上でもそれ以下でもなく十分に幸せです。今繋いでいる手の温もりを感じるだけで十分満たされるなら余計な荷物に悩まされないです。~~~~~~だと思うんですよね~。「わたしが愛し、わたしを愛してくれる」《今のあなた》、で十分だと思うんですよ。いろいろな過去があるから、《今のあなた》に巡り合えたわけですしね~。回答、ありがとうございました。なおも資料です。 ▲ (橋爪大三郎:性愛論) ~~~~~~~~~~~~~ それでは 人間の身体はなぜ 性愛へとさし向けられているのか? 身体はなぜ もうひとつの身体を求めるのか? 個々の人間にとって 他者の身体を求めることは 絶対の条件ではない。少なからぬ宗教が禁欲を課し 生涯を通じて信者(特に聖職者)に一切の性愛行為を禁じている。性愛を拒否して生きることは可能で そうしたとしても人間の条件から外れたことにはならない。しかし 注意しなければならないのは あるひとが性愛を拒否して生きることは そのひとがそもそも性愛と無縁でありうることを意味しないどころか その反対だということだ。性的身体をそなえた存在だからこそ ひとは性愛を拒否できるのである。性愛を拒否するかぎりにおいて そのひとも潜在的にやはり性愛にさし向けられている(他者の身体と性的に関係している)と言える。 この意味で すべてのひとは 性愛へとさし向けられている。そして 性愛(他者の身体を求めること)へとさし向けられている自己のなかに ひとは愛を自覚する。 愛はどのように修飾され 精神化されようと その根本は 他者の身体を求める自分の身体のダイナミズム(欲動)にある。そしてひとは そのダイナミズムがなぜ自分に訪れてくるのか 理解できない(*)。それは身体にそなわっており そこから自分のところ(精神)にまで立ちのぼってくるように感じられる。そのことは どうしようもない与件である。もっともひとは それに支配されるわけではない。それを否定したり それにあらがったり それを無視したりすることも可能である。身体のダイナミズムは それによって押しとどめられ 一定の形態を与えられる。 *(著者註) もし理解してしまえば たぶんそれはダイナ ミズムではなかったことになってしまうであろう。 実はそうした選択と加工と変形のプロセスこそが 愛を形成する。誰かれ構わぬものを愛とよばず このひとでなければという選択を愛とよぶように 身体に根ざしたダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 愛ではない。大脳の精神機能が介在し そのダイナミズムを特定の対象のうえに照準(選択)し その社会のコードに合わせて分節し言語化したときに(加工と変形) それはその社会における愛のかたちとなる。 ひとは 性愛のダイナミズムがいったいどこから訪れるか 知らない。だが それがどこへたどりつくかということならば 知っている。それは その社会の性愛に関するコード すなわち性文化のシステムなのだ。それは こう言い換えてもいい。自分がなぜひとを愛するかは たぶん誰にもわからないだろう。しかし いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている) と。 性愛のダイナミズム(いわゆる性欲)は もちろん 人間が有性生殖をする動物であるという条件に由来している。脳のなかのどこかに そのダイナミズムが組み込まれていると思われる。ひとは 自分にそのダイナミズムがそなわっていると感じる。そして どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる性文化をもっている。《愛》の観念は 西欧社会からわが国にもたらされたが だからといってそれ以前のわが国が 性文化(愛の文化)をまったく欠いていたわけではない。しかしそれは ほかの文明の場合とちがって 明確な社会規範をもたらさなかった。 《愛》という漢字は 中国のものである。日本にはこれが 仏教用語として入ってきた。[・・・] (『性愛論』1995 序章 ひとはなぜ愛するか pp.11-13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 途中で打ち切りましたが 《規範》でなくても ツイ関係におけるエチケットのような決まりがあることがのぞましいと言っているように思われます。すなわち: ▲ (橋爪 同書) ~~~~~~~~~~ サカナをはじめとしてさまざまな動物の行動〔は〕 生得的な反射の連鎖(積み重ね)によってできている。その証拠に[・・・]本物の代わりにそっくりの色をぬった張りぼてのサカナをくねくね踊るように泳がせたりすると 彼らはすっかり間違えてそれに応ずるのである。[・・・] それに対してわれわれは 人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない という感想をもつ。この感想が正しいかどうか いちおう疑ってみる必要があるとしても われわれは《愛》を 〔それよりも〕はるかに複雑なものと想定しよう。 (pp.1-2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 性・性欲あるいは処女は 愛の関数である。 確かに 性・性欲あるいは処女の扱いが この愛の関数を飛び出てしまうことはあり得ると認めなければならないように思われる。 ただし 愛が 性と性欲と処女との関数であるとは言えない。つまり 愛は つねに――あいまいであるけれども――そのような関数を飛び出ているささやかな場であり場のチカラである。No.7を承けます。 資料をかかげるのみですが。 ▲ (アウグスティヌス:われらにとってのつねなる試練)~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。 * 《このようなもの》:とは 端的には 情欲です。一般化して 言えば 《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これら のたぐいを みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分から依り憑いていく心の片向き つまりは その 弱さ》です。 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。 また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。 しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。 (アウグスティヌス:『三位一体論』 中澤宣夫訳 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《処女》というより 《みさを(ミ=霊 + サヲ=アヲ=青)》――むしろその青さやみづみづしさは たましいのでしょうか――としての処女の問題ですね。No.14を承けます。 ☆☆ (回答No.14) ~~~~~~~~~ 聖書にもとづく《愛》は タテ・ヨコのそれですよ。ヨコは 隣り人としてのそれです。 タテの愛とヨコの愛とは ふたつにして一つであるとも説かれます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これで 理論としては すべてであると言ってもよいと考えます。 そして 理論と そのオシエ化されたものと 理論の応用でもある・オシエの実践 これらの三つのもののあいだには しかるべき区別があります。 オシエ化を経たあとの段階で何が起こるかは もう理論もその面倒を見切れません。 いわゆるキリスト教の教会や信者たちの繰り広げた歴史には――責任を回避するという姿勢になるのではなく―― その人たちの自由意志による思想と行為ですから 他人の手に負えないところがあると明らかにしておかざるを得ないと考えます。 ◇ 隣人愛を口に説きながら、神を媒介にしなければ、横の愛は出てこないのではないですか? ☆ これは 当たっているところがあります。なぜなら 人間どうしのヨコのつながりとしての隣人愛は 煮詰めた理論としては 神からの愛――つまりは 人びとそれぞれにやどるアートマンなる霊のチカラ――無しには 成らない。というのですから。 ただし問題は この神の愛が――ブッダターなる慈悲が―― 煮詰めた理論としては 人間には分からないというところにもあります。つねにナゾであるというところです。 ということは 人間が意識して意欲としてそして意志行為としておこなうのは 人間の能力と努力とによるヱクトルとしての愛です。愛情と憎悪などなどを含んだ向きとチカラとから成る二角関係であり じつはほかに愛なる動態はあり得ません。あっても 人間には分かりません。 ということは 神については 有る神か無い神かは どうでもよく 有る神の名がどうであろうとやはりどうでもよく 神の愛に裏付けられた隣人愛が出来たかどうか これも じつは 人間には最終的な判定としては分からない。 ということは 取りも直さず すべての人が わが隣り人である。となります。 文明もバルバロイも関係ありません。 あとは 生活共同ないし共生が 広く愛の思いでありおこないである。となります。それだけのことです。これが クリスチャンの行き方です。 欧米人がいかに言おうと ローマ教会が何をほざこうと 関係ありません。神は すでにみづからを揚棄しましたから。 このようなふつうの愛――二角関係――のもとに 男女のツイ関係も活きています。 [性・性愛・処女論なるツイ関係]= f (二角関係なる愛) 二角関係なる愛 ≠ f (ツイ関係)お礼ありがとうございます。肉欲に溺れ、やりっぱなしの外道道を歩かないための戒めでしょうかね。戒めは囚われとなれば、欲求はさらに増加することを人間はそろそろ学ぶ時かと思います。時代が古く教えが長く根付いてるところほど本来の教えから外れるものと知り、我身を見直す。教えを曲解しないための自衛手段が、機能している所はほとんど見当たりません。戒めに縛られるも、戒めを解くのも己自身。自分を貶めるも蔑むも、救われるも自分の成せる技。当たり前の正しさより、今に生きる真摯な取り組みこそが好転の順当な道であり、処女信仰などにはまらないですみます。今のそのままの相手を、あるがまま愛せればそれ以上でもそれ以下でもなく十分に幸せです。今繋いでいる手の温もりを感じるだけで十分満たされるなら余計な荷物に悩まされないです。まだまだ長い道のりですね。それなりに。>これは文化的なものなのか、ではなく、生物学的な要請―――たとえば、生まれてくる子供は、パートナー(男)の子供である確率が高い―――なのか?私は「処女性」について、ほぼすべて文化的な要請であると考えています。そもそも、人間の性を考えると、明らかに文化的宗教的差異を見ることができます。その差異とは・一神教が歴史的に普及している地域・一神教以外の歴史が長い地域(西洋の植民地支配以前は独自の宗教観があった地域)・植民地支配の影響を受けていない地域に分けることができます。日本は三番目の「植民地支配の影響を受けなかった地域」であり、そのため神道や仏教の習合、各地独自の独特の風習(たとえば沖縄の男子禁制のウタキとか、奇祭として有名な男根祭りとか)があげられます。中国や東南アジア(インド以東)もある程度、影響を受けなかった(受けても軽微)と言っていいでしょう。特に中国の儒教は重要でしょう。次に明らかに文化的な特性を持っているのは、ユダヤ・キリスト・イスラムというエホバ神を核とする一神教の地域です。この地域はもともと遊牧地域であり、牧畜を前提とした文化的影響が見て取れます。最後は、西洋の(つまり一神教の)植民地支配以前は独自の宗教があった地域です。南米やアフリカなどはキリスト教やイスラム教などが普及しているとはいえ、独自の宗教感も残っています。さて、処女性を考えるときに私が思い浮かぶのは、割礼と宦官です。いずれにしても牧畜文化の考え方を表しているといえます。放牧文化では優秀な種を持たない限り、去勢されたり屠殺されたりして、子孫を残すことができません。つまり「人間も家畜同様、主人の損得勘定によって扱われ方が決まる」というのが文化の基礎になっているのです。日本人にはちょっと信じられませんが、先進国は別にしてもヨーロッパからアラブの牧畜文化の国では今でも「女の子は、嫁にやるときにお金になる」と考えられています。シリアなどで児童婚が問題になっていますが、その根底には「家畜と同様、娘を売れば利益が得られる」という牧畜的な考え(生き物を扱い、出産で増えることが利益を生む)があったわけです。そのような視点から見れば、領主や聖職者がもっている「初夜権」は自分が囲っている(自分の領地にいる)女性を、特定の男性に譲り、その男性の妻となった女性が子供を生み育てて、家系が繁栄することに対する税というか利益の前払いであり、初夜権は事実上、その女性を娶る男性が、領主に金を払うことで買い取っていたわけですから、家畜のメスを売り払って利益を得るのと同等の行為であったと言えます。牧畜文化においての処女の重要性は、お金に換えることができる資源(一人に1回しかない)として希少性があったのです。また、牧畜文化は一神教文化でもあります。一神教の特徴として「禁欲」が挙げられます。モーゼの十戒は一神教すべてで有効な戒律であるといえます。この中で「姦淫」は神との約束を破ることになります。逆をいえば、中世の魔女は神に背いた悪徳そのものですから、その魔女が神との約束を守って処女(姦淫をしていない)ではまずいわけです。ですから、魔女狩りは「神との約束である戒律を破ったもの」非処女でなければならなかったわけです。ジャンヌ・ダルクの例も裁判において「悪魔を呼び出し、悪魔と契約と交渉(つまり性行為)を行った」ことが「魔女である証拠」とされたようですから、処女性はむしろ善と見られていたと思われます。また、処女を善とすることは、婚前交渉を減らすことになりますので「初夜権」を担保するのに十分な理由にもなります。牧畜文化からくる処女の希少性(金銭価値)と一神教における禁欲の発露(姦淫の禁止)が、西洋での「処女の価値」そのものであるといえるでしょう。では、同じように牧畜文化を持っていたアジアはどのようなものかというと、少し複雑であるといえます。まず、アジアにおいて「遊牧民族」というのは、純粋な漢民族ではなく元とも称されたモンゴル系の人々であり、明を後の清も同じようにモンゴル系であったといえます。中国の歴史は、農耕民族である漢族と騎馬・放牧文化であるモンゴル系が中原の支配権を争ってきた歴史であるともいえるでしょう。このときに漢族は春秋時代には孔子が出現し、体系としての儒教をまとめています。当然ながらそれ以前から儒教的な風習はあったでしょう。そして儒教は君主に対しては忠、父に対しては孝と、主君に忠義を尽くしながら先祖からの血筋を絶やさないのが孝徳である、という考え方ができてきました。これの場合の女性の役割は「次の世代の子供を生み、血筋を絶やさない」ということにつきます。つまり子供を産めない女性はポンコツであり、その重要性は処女性よりも重要であったと言えます。ということは「うちの娘はポンコツであるかないか」を場合によっては確かめる必要性もあったのでしょう。試し腹というのは「妊娠できる女性でなければ無価値」という考え方、つまりは「血筋を絶やしてはならない」という価値観から出発しているといえます。そして、アジアには一神教の十戒のような禁忌はありませんでしたから、試し腹でもなんでもありえたといえるのでしょう。さて、日本の話になりますが、日本は牧畜文化ということに関しては、非常にナイーブなところを見せます。たとえば大宝律令で律令制を中国から輸入したはずなのに、科挙と共に宦官も受け入れていません。また、元寇の際には牡馬の去勢も知られていたはずですし、遅くとも種子島以降には西洋人が去勢の知識をもたらしたはずなのに、それらを行うことをしていません。日本の馬が去勢されるようになったのは、明治以降のことであり、日本に馬車が無かったのは「去勢されない雄馬の凶暴性」を制御できなかったからだとも言われいます。日本は性については非常におおらかであり、性そのものに神秘性・宗教性を見出していた、ともいえます。たとえば、江戸時代までの漁村では、妊娠している女性が神にささげた飯椀を蹴り倒し、遠くに飛べば飛ぶほどその年は豊漁である、と考えられたという祭りもありましたし、今でも一切表に出ませんが、神事=村総出の乱交パーティだった地域もあったと言われています。これだけでなく夜這いで妊娠した娘は、夜這いした男性の中から伴侶を指名することができ、生まれた子供が指名された男性の子供でなくても「村の子」ということで、集落を上げて大切に育てられた、とも言われています。つまり男女の性交渉そのものが、集落における摩擦の軽減に一役買っていた、という文化であるといえます。実はこれとほぼ同じ文化はエスキモー文化に見ることができますし、ネイティブアメリカンの一部や南米の原住民の一部などにも見られる風習であったと言われています。このような「性交渉により集団の摩擦を軽減する」という文化からすれば、処女は「性交渉への不参加」であり「集落への帰属意識の低下」を招きます。つまり、このような文化であれば処女は何の価値もない、ということになります。ちなみに江戸時代までの日本では処女はおぼこ:未通娘とも呼ばれており、どちらかと言うと蔑称であったといえます。古来の日本では処女の価値は無かった(というより処女と言う言葉自体が明治以降の西洋文化の翻訳語)といえます。このように、各地域の特性・風習によって人々の役割やその存在価値も変わっていくといえます。ですので、各地域で「処女性」の価値に違いがあるのは当然であり、またそれは生物学的な要求と言うよりは、社会学的な要求であったといえます。こんにちは。~~~~~~そのような精神状態において、性欲を汚いものとする価値観が入れば処女信仰が出来上がると思います。自然な欲求と認めず、行為そのものが淫らや淫乱と言うレッテルが貼られると、性は内向に向かいます。オープンであれば問題は無いかと言うと欲に絡む行為ですから、溺れたり引きずられて調和を乱すことが今より増えるでしょう。~~~~~~~を読みまして、ワーグナーの『タンホイザー』第二幕(膜?)を思い浮かべました。中世の騎士・タンホイザーが騎士や淑女の前でヴェーヌス(ヴィーナス・アフロディーテ)、性愛を讃えるような歌を高らかに歌うんですよ。そして、「性愛の歓びを知らない哀れな奴らめ。一度、ヴェーヌス・ベルグ(ソープランド???)に行ってから、愛を語りやがれ!!」といった内容のことを口にする。すると、騎士たちから「こいつ、ソープに行ったぞ!!みんな逃げろ!!」と叫ぶ。また、淑女たちは あっち行って! 近寄らないで! (エンガチョ!!)で、タンホイザーは追放。そして、贖罪のためにローマへと向かう。でも、法王も許してくれない。「枯れ木(の杖)から芽が出たら許してやる」という…。どうやら、キリスト教圏では、女性だけではなく、男の《貞操・みさお》も大切なようです。しかし、「(性愛とタンホイザーを)そこまであからさまに汚物扱いしなくても…」と、わたしは思うのですが…。回答、ありがとうございました。☆☆ これは 当たっているところがあります。なぜなら 人間どうしのヨコのつながりとしての隣人愛は 煮詰めた理論としては 神からの愛――つまりは 人びとそれぞれにやどるアートマンなる霊のチカラ――無しには 成らない。というのですから。◇はい。結論の先取りになりますが、「だ・か・ら、もはや縦の愛は要らない。横の愛だけでいいはずだ」です。《仏仏》、《唯仏与仏》でいいと思います。 ―――法華経や日蓮系の人たちの言う《唯仏与仏》じゃないですよ~。「ただ仏と(与)仏のみ」です―――わたしは、そう考えます。回答、ありがとうございました。様々な文化的視点からの分析、ありがとうございます。~~~~~さて、処女性を考えるときに私が思い浮かぶのは、割礼と宦官です。いずれにしても牧畜文化の考え方を表しているといえます。放牧文化では優秀な種を持たない限り、去勢されたり屠殺されたりして、子孫を残すことができません。つまり「人間も家畜同様、主人の損得勘定によって扱われ方が決まる」というのが文化の基礎になっているのです。~~~~~宦官は牧畜文化と密接な関係がある、と言われますよね。また、原則として、長子相続ではなく、我が子を互いに競わせ、子供の実力や能力によって、親のあとを継ぐ、ということも牧畜文化の特徴の一つとされているようですね。清朝は、漢民族の長子相続を最後まで受け入れず、こうした実力本位制を採用した、といわれます。たとえ皇帝になったとしても、その実力がないとみなされると、毒殺をされたり、非業な最期を迎えることになる…。~~~~~○また、処女を善とすることは、婚前交渉を減らすことになりますので「初夜権」を担保するのに十分な理由にもなります。○牧畜文化からくる処女の希少性(金銭価値)と一神教における禁欲の発露(姦淫の禁止)が、西洋での「処女の価値」そのものであるといえるでしょう。~~~~~なるほど、なるほど。☆実はこれとほぼ同じ文化はエスキモー文化に見ることができますし、ネイティブアメリカンの一部や南米の原住民の一部などにも見られる風習であったと言われています。◇ネイティブ・アメリカンは、基本的に母系社会ですしね。ラコタ・スー族などでは、奥さんが気に入らないと、旦那さんはすぐに追い出されたそうですよ。また、インディアンの多くの部族では、《ベルダージュ》と呼ばれる第三の性が認められ、同性愛者はその部族の中で子供の名付け親になるなど、重要な役割をはたしたと言います。日本も、明治以前は、同性愛は半ば公然に行なわれていましたが、これはどちらかというと、少年愛に近かったらしいので、これはまた別なのでしょうね。こうした性に対する差別意識をなくすために、日本人の多くが《ベルダーシュ》という文化、制度をもっと知るべきなのでしょうね。☆古来の日本では処女の価値は無かった(というより処女と言う言葉自体が明治以降の西洋文化の翻訳語)といえます。◇処女の価値は無かったとは言えないと思いますが、今日考えられているように処女や処女性は重視されなかったのは、事実なのでしょうね。処女や処女性の株が上がったのは、明治以降のことで、極めて人為的で、政策的なものだっと思います。回答、ありがとうございました。「私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。」という文に過敏に反応するのは、わたしの勘ぐりすぎなのかもしれませんが、グノーシス的な匂いを感じてしまいます。(ネオ)プラティニズムの方なのかもしれませんが…。たぶん、わたしの考えすぎなのでしょう。☆☆ 《処女》というより 《みさを(ミ=霊 + サヲ=アヲ=青)》――むしろその青さやみづみづしさは たましいのでしょうか――としての処女の問題ですね。◇これは面白い考えですね。日本の文化、日本人の心性には、未熟なものに対する愛おしみや優しい眼差しがありますので。現代用語で言えば、《萌え》となるのでしょうか。なお、ここでの《萌え》は、青葉が一斉に萌え出すような《萌え》です。回答、ありがとうございました。処女の価値すこし際どい話になるのですけれども、処女・virginity、処女であることというのは、いかなる価値なのでしょうか?これは文化的なものなのか、ではなく、生物学的な要請―――たとえば、生まれてくる子供は、パートナー(男)の子供である確率が高い―――なのか?古い時代のヨーロッパには、処女は忌まわしいものと考えられ、結婚前に聖職者や新郎の父親によって破瓜(はか)されてから、新婦さんは新郎と初夜を迎えるといった風習を持っていた地域が数多く存在しています。 ―――こうした風習がヨーロッパの封建領主の有した《初夜権》になったとする説があります。これについては諸説あるのですが…。ロシアでは、19世紀くらいまで、封建領主は初夜権を有していた。―――ヨーロッパには、処女は忌まわしい魔的な存在であるという考え方が中世まで残っておりまして、女性は処女のままで処刑されることはなく、処刑前に牢の門番などによって破瓜されてから処刑された。――映画『ジャンヌ・ダルク』にもこのシーンが出ていたはず。―――これについても異説がありまして、処女は誘惑に弱いのだから、処刑後、悪魔に誘惑されることなく天国へ行けるようにと、温情からそうしたのだとする考え方もありますが…。ヨーロッパで処女や処女性を重視するようになったのは、キリスト教の影響(・・?また、どこかは忘れたのですが、古代オリエント社会の何処かに、処女は結婚できないとされ、非処女であることが結婚できるための必要条件であった地域があったらしいんですよ。これが古代オリエント社会にあった《聖婚》と関係しているのかどうかは記憶が定かでないのでハッキリしたことはいえないのですが、ちょっと売春的なことをさせられていたらしいんですよね。 ―――これは女性の(宗教的な)義務、社会的奉仕だったたらしい―――で、買い手が付かないと、その女性は結婚できないと…。性に対して極めておおらかな日本では、そもそも処女性などは問題にはならないし…。藤原鎌足は、天智天皇のお妃(采女)の一人である安見児(やすみこ)を下賜され、 われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすとふ 安見児得たり「オレは 安見児を 天皇からもらったもんね。スゲェ~だろう、羨ましいだろう」という喜びの歌を読んでいるほど。 ―――この時、既に、安見児さんのお腹の中には赤ちゃんがいたらしく、これが藤原氏に繋がる藤原不比等だとか、そうではないとか…―――平清盛も、どうやら、これと同じパターンらしい。これは、古代日本の結婚のスタイルがいわゆる《妻問い婚》で、父親の財産は男子ではなく女子が受け継ぐからなのかもしれませんが…。江戸時代は、女性の再婚は当たり前のことでしたし―――大都会・江戸の町は、人口比における女性の割合が低く、慢性的なお嫁さん不足状態であった―――、川柳などを見ると、未婚女性も、結構、性の悦びを謳歌していたらしい。女性や男に性的な潔癖を求めるようになったのは明治以降のことで、ヨーロッパの列強に日本が近代国家であることを印象付ける上での政策であった、とする説もあるようで、現代の日本は性(道徳)が乱れているといわれますが、実は元の状態に戻っただけなのかもしれない。お隣の韓国では、嫁入り前に親族などが嫁入りの娘を妊娠させ、妊娠可能であることを証明してから、そのお腹の子供ともども嫁がせるという《試し腹》という風習がありましたし、処女であることや童貞であることの価値や美徳とは、如何なるものなのか、さっぱり分からないんですよ。ジャイナ教のように極めて厳格な禁欲主義でことさら性的潔癖さを重視するというのならば分からないでもないのですが、何故、性的潔癖さを重視するのでしょうか?特に女性に対してですが…。ユダヤ・キリスト教的な話との関わりあいでいいますと、ユダヤ人の条件は、 1 ユダヤ教を信仰する者 2 母親がユダヤ人であることのうちのいずれかであって、父系社会だから女性の性的潔癖さや処女性を求めるというような単純な構図は成立しないようなんですよね。かなりキワドイ内容なのですが、皆様のお考えを教えてくださいませ<m(__)m>様々な角度、視点からの回答をヨロシクお願いします<m(__)m>こんばんはです。~~~~~~>結婚前に聖職者や新郎の父親によって破瓜:聖職者の特権を作りたかったのでしょうか。~~~~~~これは血を嫌ったためだと思います。血に対する漠然とした恐れ、これがあると思うんですよ。この他にも、器具を使って破瓜したり、古代ローマでは、神様の像の前に木製の♂があって、そこで女性がまたがって…ということも行なわれていたようです。わたしも血が苦手なので、こうした気持ちはよく分かります。ですが、おそらくそんな単純なものではないと思います。血には不思議な霊力があると考え、その霊力を恐れたのではないでしょうか。遊牧民の中には、家畜を解体するとき、その血を一滴も大地に垂らさないようにするという離れ業をする部族がいくつも存在したりします。たぶん、血が大地に落ちると、大地が呪われる、といった原始的心性がこの背景にあるのではないでしょうか。わたしが聞いたところによりますと、大奥では、御典医がメスなどで切開して、それから将軍と…、いうことです。これは、呪術的というよりも、将軍さまに心理的ショックを与えないようにとの配慮から行なわれたそうです。☆わたしは子どものころいつも母親に「URおタンチン!」と言われていたのですが、あの言葉はいまも使うのかしら。◇オタンチンは、「短い♂」をさす遊廓の隠語とされています。 ───嫌なお客を指し示す言葉だったらしい───女性には、ちょっと使えないのではないか、という気持ちがするのですが、ですが、岐阜県の方言には「バカモン」というくらいの意味があるようですね。☆それとも【未成年】と【大人】を区別がごとく、【使えるヤツ】と【謎なヤツ」とに分けられ、【処女】は都合よく見下されていたのですか。◇どうでしょうか。見下すということはなかったとは思うんですが。でも、わかんないです。今の若い女の子のように、ある年齢(たぶん18歳くらい)まで処女であると、「えっ、まだ処女なの!?」と驚かれ、「早く××」なんてことはあったのかもしれませんね。~~~~~~~「機械は使わずに置いておけば摩耗せず長持ちする。 ときどきオイルを刺してやると、なおよろしい。 一方、人間は頭にしろ体にしろ、 使えば使うほど発達するし、使わなければ衰退する。」~~~~~~~これは、また、きわどい話ですね。使わなければ、衰退しますね。性的能力も同じことだと思います。☆ひとは【発達したもの】【洗練されたもの】が好きですか。◇扱いきれないほど【発達したもの】は、嫌われるんじゃないでしょうか。わたしはガラ携を使っているのですが、わたしはこのガラ携の機能の1/10も使っていません。もっとシンプルなものの、使い慣れたものの方が好きです。FOMAではなく、movaの方が使いやすかった。わたしはmova廃止の3ヶ月前までmovaを使っておりました。新しいものや発達した物が必ずしも使いやすいとは、限らない!!また、愛着を感じられるものでもない、と考えやす。☆ひとは【人を理解する】のが好きですか。◇と思います。そして、同時に他人(ひと)から理解されたい、と思っているのではないでしょうか。☆わたしも話のできない小便臭い男の子は好きではないので幼い娘を面倒くさがる男に文句は言えないんですけれど。◇性に関しても、教育する楽しみを挙げる人もいるようですね。☆カマキリの交尾は、あれはおもしろいと思います。◇カマキリのオスも食べられては大変と対策を練っているようで、脱皮直後で動けない♀にチョメチョメなんてことをするそうですよ。また、運良く逃げられるオスもいるとかですよ。確か、ジョロウグモもオスは食べられる可能性があるので、メスが食事中の時とか、脱皮直後で動けない状態の時に、交尾をしようとするオスがいるという話を聞いたことがあります。☆「目的」が「種の保存」とは限らないようです。◇だと思います。ヒトの性や性交はもっと奥深いものがある、と思います。☆外国語にはメス名詞とかオス名詞とかメス動詞とかオス同士とかあるんだけど、あれは、なぜ、どのように生まれたのかしら。◇これは分からないです。名詞に性があると、その言語が特に便利になるとは考えられないので。英語や日本語、中国語のように、名詞に性を有しない言語が構造的に複雑になるというわけでもないですし、何故なんでしょうね。事物には霊や精霊などが宿っているという原始的心性、アニミズムが関係しているのでしょうか。こういうことは、bragelonneさんが詳しいので、お答えが寄せられるといいですね。回答、ありがとうございました。聖書の愛は。で・す・が、いわゆるキリスト教、キリスト教徒の愛は、縦の愛でしょう。隣人愛を口に説きながら、神を媒介にしなければ、横の愛は出てこないのではないですか?だ・か・ら、キリスト教とキリスト教の神を信じない人とは、隣人になれない。悪い言葉をあえて使うならば、キリスト教を信じない人たち、《バルバロイ》は、隣人ではない。そして、《バルバロイ》とは横の関係を作ることができない。「これはおかしい」と、わたしは言いたいのですよ。そして、こうした《文明人》⇔《バルバロイ》という構図は、未だに根強く欧米人の根底に残っているように思います。特にアメリカですがね。たとえば、グローバリズムや民主主義の押し付けなどなど…。その淵源が隣人愛であるにしろ、だから、博愛と声高に叫ばなかったのではないですか。隣人愛という言葉はあったにしろ、これが全く機能していなかったから、平等や博愛を説かなければなかったのですか。こういうことを言いたかったわけです。~~~~~~《愛》の観念は 西欧社会からわが国にもたらされたが だからといってそれ以前のわが国が 性文化(愛の文化)をまったく欠いていたわけではない。しかしそれは ほかの文明の場合とちがって 明確な社会規範をもたらさなかった。~~~~~~という記述に反発したくなりますね~。ここでいう「他の文明」とは、ヨーロッパ(キリスト教)文明のことに過ぎないでしょう。ヨーロッパにだけが文明でない。また、これは、西欧からもたらされた、キリスト教に基づく《愛》という観念、概念が日本にはなかったということに過ぎません。キリスト教のいう《愛》だけが愛ではあるまいし、また、キリスト教の愛は縦・上下の愛です。キリスト教・ヨーロッパ型の愛には、基本的に、横の愛が欠けているではないか!!でですが、☆☆ 途中で打ち切りましたが 《規範》でなくても ツイ関係におけるエチケットのような決まりがあることがのぞましいと言っているように思われます。◇このエチケットは、上から与えられる《規範》ではなく、ツイ関係、つまり、横軸の関係として、自然発生的に生まれるべきものだと思います。回答、ありがとうございました。